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ノーベル平和賞と、性暴力

 今年のノーベル平和賞に、性暴力根絶を訴えるコンゴの医師デニ・ムクウェゲさんとナディア・ムラドさんが選ばれた。ナディアさんはISから迫害されてきたヤズディ教徒の一人であり、彼女自身も性暴力を受けてきたのだという。

 イラク北部、クルド人自治区を取材する中で、迫害から逃れたヤズディ教徒の方々にもお話を聞かせてもらってきた。

 誘拐された当時、14歳だったというあるヤズディ教徒の少女は、家族から引き離された後、既に妻のいる兵士と結婚させられることになったという。それから3ヵ月以上、“夫”の暴力にさらさ続ける地獄のような日々を送ることになる。

 唯一の“救い”となったのは、妊娠が避けられたことだった。彼女の身を案じて、兵士の元々の妻である女性がこっそり避妊用の薬を渡していたのだ。
その後、隙を見て脱走し、飲まず食わずで歩き通した末、難民キャンプでようやく再会できた家族たち。けれどもそこに、父親の姿はなかった。

「解放されても、私たちの心はまだ、彼ら(IS)に支配されたままなの。だって毎日、戻らない家族たちのことを考えて生きているのですから」。彼女と同じように、行方のつかめない家族を待つヤズディ教徒の方々が、取材中にそう語って下さった言葉が思い出される。

 こうしてヤズディ教徒たちが抱えている困難自体と向き合っていくことはもちろん、同時に大切なのはこれを「遠くの国の、大変そうな問題」という輪郭のぼやけたものとしてとらえない、ということではないだろうか。なぜなら性暴力や女性蔑視は、紛争下ではない日本でも、ヨーロッパの国々でも起きているからだ。

 つい先月、アイルランドで起きたレイプ事件の裁判で、17歳の女性が被害当時レースの下着を履いたため、「性行為をする意思があった」と相手弁護士が主張。その後、男性は無罪となった。これに対し #ThisIsNotConsent (これは同意ではない)というハッシュタグで、様々な下着の写真をツイートする抗議活動が広がっている。

 性暴力は受ける側がどう防ぐが、どう拒否するのか、という議論に行きついてしまうことが多い。ただそれは、「防げたはずだ」「拒否できたはずだ」という言葉と一体となる危うさもはらんでいるのではないだろうか。

 どう防ぐか、という視点と同時に、加害者を生み出さないためには何が必要なのか、に光を当てなければならないのだと思う。コンゴやイラクであれば、戦争という暴虐を、ここ日本では「無知」という無意識の暴力を。

 この性暴力が「女性の問題」ではなく「人間の問題」である限り、誰しもが当事者だといえるのかもしれない。

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