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お調子者の実は過酷だった今までの人生②

個性について①

中学校から高校までバスケ部だった。小学生の頃は空手、柔道、サッカー、野球などやって、あと何をやったかは覚えていない。

ほとんど、親に言われて始めて続かなかった。野球は友達がきっかけで始めたけど、6年生の僕はそんなすぐには同じ土俵に立てず、辞めてしまった。

よくある、習い事が続かない小学生だった。

そんな中、出会ったのはバスケだった。始めた理由は好きな女の子がバスケ上手かったっていう年頃の考えだ。

それから、自分でボールを買って、学校の校庭でずっと練習をしていた小学校6年生の3学期である。

中学校でもちろんバスケ部に入り、こんな上手い先輩がいっぱいいるんだなともっと頑張らないと無我夢中に練習していた。身長が165cmの僕のポジションはポイントガードだった。

親はすぐに辞めるだろうと考えていただろう。しかし、3年も続け、副部長になり、スタメンにもなっていた。あの頃はすごく楽しかった。仲間たちと優勝目指して努力して。顧問の先生も僕らのことを考えてくれていた。

最後の大会は二回戦目で優勝候補に当たって負けた。でも。30点差を10点差まで縮めて、まるで漫画だった。噛みつくことはできた。

それから、高校でもバスケ部に入り、負けた悔しさを胸に、また頑張ろうと思っていた。その時負けた相手のエース3人組もいた。その時はワクワクしていた。

月日が経過し、僕の長所はリングまで届くジャンプ力、馬力、フィジカルだった。そのおかげなのか、どのポジションも練習することになり、5人分のの攻め方、守り方、フォーメーションを覚えた。もちろん、朝練も居残り練習もひたすらやったが高校ではスタメンになれなかった。

引退しても理由が分からなかった。ただ卒なく熟す僕は、5人の長所まで届かなかったのだろう。引退がかかってる大会で負けた時、涙を流せたのは自分に悔しかったのだろう。大泣きとかではなく、ただ勝手に流れた。

引退後、マネージャーがブログに一人一人にメッセージを書いていて、それを見て、いつもチャラいマネさんに心を救われた。あれが大泣きだったと思う。僕が思い悩んでいること、それでも努力を辞めなかったこと、共感してくれていた。そんな事話したこともないのに、見てくれていて、部屋で泣いてしまった。

ここでポジティブに自分のオリジナリティを考えると、そもそも5人分のポジションを行っている時点で個性なのだと。もう少しあと少し、努力していれば、5人をも凌駕して、最強になれたのかもしれない。もはやポジションに囚われている時点で、自分の個性を潰しているのかもしれない。置かれた場所で咲くのではなく、咲く場所も、咲き方も自分で決めてやろうではないかと思った。バスケは何でもできてしまった僕は大学でダンスに出会った。


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