小島夏葵(小島凡鶏)

劇作家。noteでは主にエッセイを執筆。 「毎日戯曲」→http://natsukik…

小島夏葵(小島凡鶏)

劇作家。noteでは主にエッセイを執筆。 「毎日戯曲」→http://natsukikojima.tumblr.com/ Twitter:@_natsuki_kojima

最近の記事

月を指差す奴が言う

 自分の家を指差す機会というのは、多くはないがそれなりにある。立地によって変わるだろうか。でかくて目立つ家に住んでいるほどその機会は多かったかもしれない。リッチによって変わ……やめておきましょう。家の大きさを比べるなんて下品なことだし。  しかしまあ、本当に家を指差す機会の多寡はそういった事情に限らない。  たとえば小高い丘や駅から自分の家を見下ろして「あんなところに見える」とやったことは幼い時分の自分にもいくらか覚えがあるかもしれない。あるいは物語の中の景色として。「あの

    • 戯曲『旅行者たち』

        空港の待ち合い席。Aが一人、灰色の服を着て椅子に座っている。隣には黒いボストンバッグと灰色の傘。下手側に少しだけ離れて黒いスーツケースが立てられている。他に人の姿はない。時折、放送音が広い空間に反響している。A、バッグの外ポケットや、服のポケットを探り始める。 A 私は、イメージということをしない。お前は人としての良心をどこにやっちまったんだとなじるように質問されたとき、昔置いてきちゃったんだよねえ月の裏側にと答えるような、どこかから借りてきたような想像力、そういうもの

      • 人生を悪い方へ

         私にはとにかく、あらゆる物事を悪い方へ悪い方へ考える癖がある。今のところおそらく人生の芯までその癖に蝕されている。悪い考えに真剣に囚われている最中はやはりたいへん苦しい思いをするものだけれど、一方で、この癖は別段よくないことばかりではないのだろうということも、今は思っている。  そのことについて、つまり、想像するということについて少しだけ長く、話そうと思う。  この悪く考える癖はかなり昔からある。覚えている中で一番古い記憶としては、おそらくまだ幼稚園児だったとき、「クリス

        • 20200117未明

          水の落ちる方が下 上はまだ見たことがない 天使は映した画面から私の背を見ている 私の見ている空は本当に鏡越しでないか? (愛は眼差しには込められていなかった) 子供たちの笑い顔は霧が晴れると共に消え失せた 最後まで大切にされたものだけを 私たちは祝福と呼ぶことを許された パウル・クレーと谷川俊太郎に寄せて (写真:マツオカナ Twitter:@kana5806)

          所在なく桜が舞っている

          高架を走る電車の窓際に立って景色を眺めると、ビルや家屋の、それぞれ大きさも形も違う四角形がひしと肩を寄せた街の姿がよく見える。 東京の土地はどこも残らず、誰かが何かのために使っているようである。 しかし、この季節、それらの隙間で度々目を引くものがある。 あたかもコンクリートの継ぎ目から生えるタンポポのように、建物の合間にピンク色の柔らかい房が覗いている。 思えば不思議なことにこの花は、街に君臨する実用性の規律を割って、食う実もつけずに街のあちらこちらに咲いている。役割を問

          所在なく桜が舞っている

          では、夢で会いましょう。

          今朝、目が覚めて、私は一つの考えに囚われている。その考えを、少し遠回りになるが聞いてほしい。 眠っているとき、自分の見た夢から何かを教わることがある。そう言ったらどう思うだろうか。 そんなものは思い込みや迷信や、白々しい勘違いの類だと思うかもしれない。だが、必ずしもそうではないのだ。 人は自分の夢から新しく何かを知るということが、本当にある。 こんな夢を見た。 ある巨匠が手塩にかけていた双子の弟子が若くして亡くなった。周囲から将来を有望視される二人だった。二人は大いに

          では、夢で会いましょう。