戯曲『旅行者たち』

  空港の待ち合い席。Aが一人、灰色の服を着て椅子に座っている。隣には黒いボストンバッグと灰色の傘。下手側に少しだけ離れて黒いスーツケースが立てられている。他に人の姿はない。時折、放送音が広い空間に反響している。A、バッグの外ポケットや、服のポケットを探り始める。

A 私は、イメージということをしない。お前は人としての良心をどこにやっちまったんだとなじるように質問されたとき、昔置いてきちゃったんだよねえ月の裏側にと答えるような、どこかから借りてきたような想像力、そういうものを私は行使しない。私は目に見えるものだけを愛してる。星の王子様からアカウントをブロックされている……いや、それも想像力。そういうユーモアも私は使わない。

  A、着ている服の背中、首の後ろからパスポートを取り出し、バッグのポケットに収める。

A 私は想像しない。遠くへ行きたいから。子供のころからの夢だった自分だけの真珠色のロケットで飛び立ち幸福の種を掴み取って帰ってくるような想像力を捨てることで私は今度こそ本当に遠くへ行く。想像をした人間はみんなその場で地面にへたり込んだ私はそれを見てきた。いつだって想像力を欠いた人間が、遠くへ行き、また、有り余る富を手にする。想像した人間はその一歩前で手を止め、立ち止まり、ともすれば引き返す。引き返した。

  A、ボストンバッグを開ける。中から次々と、無数の写真立てが現れる。Aはそれをベンチの上や周りに立てていく。写真にはそれぞれ別の、人の顔や姿が映っている。

A くだらないことだけど。一人は飛行機に乗るのが怖くて海を越えられなかった。飛行機が落ちるならついでに宝くじでも買っておいたらきっと儲かるぞ当たったらランボルギーニを買ってくれ、とおどけながらに言ったところで彼の想像に打ち勝つことは叶わず、彼は一人置いて行かれた。一人はやっとたどり着いた一枚の契約書。だけどその取り決めが顔も知らぬ遠くの人に押し付ける苦渋を想像の中に見出し、またその人の人生や家族さえも空想し、結局その契りを取り結ぶことをしなかった。1年もしないうちに、彼女はその世界を去った。また一人は僅かな躊躇いの為にたった一言の礼を言い損ねたことをそれから50年の生涯ずっと後悔し続けた。また一人は……。

  間。写真立てのいくつかは並べきれずがしゃりと床に崩れている。Aは並べた写真たちを正面から、少し離れて見ている。

A 『遠くへ行きたい。どこでもいいから遠くへ行きたい。遠くへ行けるのは、天才だけだ』と、詩の中の言葉で言っていた。それも想像。自分の知らないどこか遠くに『天才』というものがいるなどと、そんな妙な想像はするな。遠くへ行くことを諦めないならば絶対に想像力を捨てることだ。いつだって空想は私たちの自由への旅を阻害する。人は自分が想像したことのあるものをしか、現実でも見ることができない。なんて、そんな訳はない。何度も何度も、想像しえなかったようなものが私たちに……彼ら彼女らに、襲い掛かり、ときに大きなものを取り返しのつかぬ有り様に奪っていき、また今日もまだ奪っている。それこそ、想像の及ばぬような所で、今も。

  短い間。

A 想像するな。これは想像じゃない。実際にあったことだ。私はずっと実際にあったことを話してる。私はイメージということをしないから、事実あったものについてと、今あるものについては語るけれど、これから先あるだろう物やあるかもしれない事については決して語らない。…でも、実際にあったことを後で思い出しながら語るとき、それは、想像か……?

  間。スーツケースの中から、コツコツと音がする。視線がゆっくりとそちらへ向く。

A 思い出して話すこともやめよう。私は。これもひとえに遠くへ行くために。こんな所で想像し始めたらそんなの仕方がない。水の泡だ。…あ、定型文なら例えた言い方も想像には入らないからね。水の泡。水の泡だ。幸せになりたいと願った瞬間から幸せへの無限の距離を走り始めなければならない定理に抗う為ならば、なんだってすると誓ったのが私たち。『なんだって』の中身は想像しない。あと誓う先の目に見えない存在ももちろん想像しない。本当はこの体でできることしかしないしそれも全部はしない。誓い方も、今までどこかで見た他人が誓うときの体の形を外側だけ真似している。そうやってやってきた。幸せになるために。実際に存在するものとしか戦わないために。みんなそのはずだったのに、誰もがどこかで想像し始めてしまった。想像を……いや、思い出すことはやめたはずだ。

  A、両手で自分の頬をぴしゃりと叩く。スーツケースから先ほどより大きく音がし、勢いでほんの僅かだけ移動する。A、スーツケースに半ば覆いかぶさらん形でしなだれかかるようにし、スーツケースを撫でる。

A 思い出すことはない。忘れてしまったよ。私には今目の前の物だけがある。こうして行く先の遠くを想像することすらせずに、しかしたしかに遠くへと向かう幸福。夢見ることさえ忘れたときにだけたしかに夢に近づいていたのだと全てが済んだ後から知る安らかさ。しかも私は、一人じゃない。今度こそ一人じゃないんだ。よかった。君が来てくれてよかった。

  A、スーツケースに突っ伏して静かに泣き始める。沈黙。

A えっ。(顔を上げ振り返る)荷物検査ですか?

  A、スーツケースを引いて少し歩く。

A いや困ります…いえ! 困らないです。困らないんですが、ちょっと今は、ええ、今は少し。時勢が時勢なので。ええわかりますよ。わかります。…言わずともわかりますとも。でもですね、言わずともわか、あ、飛行機! 事実ですこれ…いや待ってください。待ってください。わかりました。わかりましたってば!

  A、 スーツケースから手を離し、少し離れて立つ。

A ええ、わかっています。だって勿論、このあとどうなるんだろうかなんて、そんな想像力、私は持ち合わせていませんから。だからどうぞ。……鍵。

  A、 鍵を取り出すと、自らスーツケースの錠を開く。立てたままのスーツケースを開くと、中からは沢山の鈴と、そして枕が転げ出る。

A 当然、何一つ想像をしないというのは、それこそ空想の、産物であって、私はどうしても自分の想像から、そして過去に想像力を駆使しては散って行った者たちの面影から、逃れることができない。できなかった。その、思いがけなさ。

  周囲には徐々に人混みの音が帰ってくる。

A なにひとつ完璧に想像しないことができないのと同じように、私は何かを完璧に想像することもできない。いつだって想像にはどこか、欠けがあって、その僅かな隙間から大抵、失った後からやっと気付くような大切なものがいつの間にかいなくなっている。いなくなってしまった人たちの顔も、仕草も、その声も、私はもう完全に想像し直すことができない。想像力の網は、疎にして、また、見せびらかすように逃す。これは事実でもあるし、私の想像でも、ある。

  A、スーツケースを閉じ、枕を拾い上げる。空港の音が立ち上がってくる。

A ただ私の想像力も、転んだとてタダでは起きぬ。タダで転べばそれこそ、水の泡なので。

  A、枕を片手で持って掲げる。

A  はい、チーズ。

  枕からフラッシュが炊かれ、カシャリという音と共に写真が撮られる。まず横を向いて空港職員がいる方向を。続いて写真立てが並んだ席を撮り、最後に自撮りをする。灰色の傘を差すとスーツケースを引き、一度行きかけてから見まわして逆に向きを変え、すたすたと歩き出す。
  そして旅行者たちの喧騒の中へと帰っていく。

                              幕

参加する戯曲賞の規定に従って以下に引用元を記します。
・「遠くへ行きたい。どこでもいいから遠くへ行きたい。遠くへ行けるのは、天才だけだ。」―『若き日の啄木』(寺山修司)

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