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所在なく桜が舞っている

高架を走る電車の窓際に立って景色を眺めると、ビルや家屋の、それぞれ大きさも形も違う四角形がひしと肩を寄せた街の姿がよく見える。
東京の土地はどこも残らず、誰かが何かのために使っているようである。

しかし、この季節、それらの隙間で度々目を引くものがある。
あたかもコンクリートの継ぎ目から生えるタンポポのように、建物の合間にピンク色の柔らかい房が覗いている。
思えば不思議なことにこの花は、街に君臨する実用性の規律を割って、食う実もつけずに街のあちらこちらに咲いている。役割を問われず、その代わり前を通る人に用も問わず。
東京の桜は、そういう花である。

これはいかばかりか嬉しいことに思える。それが全てではないと分かっていながら、私たちはやはり日々実力や貢献を問われ続ける中でふと不安になる。
私は、果たして次々と突きつけられる過酷な用立てに耐えうるのか。いつまで役割を与えられてここにいられるのか。それがやはり全てなのではないか、周りにとっての私というものはやはりそれっきりのものなのではないか。
それをビルの隙間の桜が思い直させてくれる。理由や役目がなくてもそこにいられるということの、物証としての桜が今年も咲いていて、日が過ぎればはらはらと散って行って……

でもそれは、違う。違うのだ。
桜たちは昔ある日、植えられた。ソメイヨシノは人為によって交雑で生み出され、ある一本を元に増やされて日本中に植えられた種であることが分かっている。だから、彼らが今ある場所に植わっているということは、そのままそこに理由や目的が伴っていたことを意味する。
古くは江戸からはじまり、現存するソメイヨシノの多くは昭和に植樹されたものだそうである。
隅田川沿いの並木のように由緒の伝わるものもあるが、ほとんどの、街角にふと一本立ちしているような桜の樹が、どんな所以で植えられたものであるのかをひとつひとつ確かめるのは難しい。
意図と理由によってそこにあらせしめられた桜たちは、そのほとんどが理由を失ったままで今もそこに立ち続けている。

そして、春が来るたびに花を咲かせる。夏と秋と味のない冬を黒い沈黙の中で過ごし、大抵は、期待される晴れやかな4月よりも早く咲ききりすぐに散り始める。
その散る花びらの隙間に本当は、彼らが一番はじめにそこに招かれた理由が今もひっそりと混じっていて、燦々とよく散るごとに散るごとに、少しずつ失われているのではないか。
朝の南風に攫われて、渡ってくる鳥の羽根に掠められて、通り過ぎる列車の揺れにはじかれて目の前で少しずつ少しずつ。
私たちはそれを見ている。寄り合い酒を飲む人も、憔悴し目を干からびさせた人も、訪れた虚しさにふと座り込む人も、桜を見る。

そうして、理由を失った樹と、未だ理由を得ぬ人々とが居合わせる瞬間を、私たちは花見と呼んでいる。

(写真:マツオカナ Twitter:@kana5806)

#エッセイ #桜 #花見 #東京

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