月を指差す奴が言う

 自分の家を指差す機会というのは、多くはないがそれなりにある。立地によって変わるだろうか。でかくて目立つ家に住んでいるほどその機会は多かったかもしれない。リッチによって変わ……やめておきましょう。家の大きさを比べるなんて下品なことだし。
 しかしまあ、本当に家を指差す機会の多寡はそういった事情に限らない。

 たとえば小高い丘や駅から自分の家を見下ろして「あんなところに見える」とやったことは幼い時分の自分にもいくらか覚えがあるかもしれない。あるいは物語の中の景色として。「あの赤い屋根のおうち!」

 自分の家の屋根が赤かったことなどほとんどの人間にとってはただの一度もないのだが、それでも大多数が、童謡だか絵本だか朝のアニメだかによって刷り込まれた無邪気な憧れを赤い屋根に抱いている。一方、希少にも家の屋根が実際に赤かった人たちはそのことに微妙な誇らしさと、どうしてか何か寂しい気持ちを抱き、それら諸々の感情を載せて、我らきょうだい、誰もがこぞって、記憶の中の赤い屋根のおうちを指差している。もとびとこぞりて屋根を差す。家とは、そこを離れ遠くなってからが本当の家なのである。

 日本でも無類に家の遠い有名な人間にかぐや姫がいる。直線距離にして実に384,400kmというのだからもう文句なく遠い。バスが減便した都合で体感もっと遠かったらしい。
 かぐや姫というのは実に妙な女だった。そりゃ竹から生まれたのだから妙に決まっているのだが、世の中には竹から生まれたくせに育てば育つほど角が取れて特段面白みもなくなる人間が結構多い。今は30過ぎてサラリーマンをしながら、最近二言続けて喋るようになった子供のことを毎日考えている野球好きの竹生まれなど朝の西武線でそれなりに見かける。子供なんて月に帰らなくてもすぐに親元離れてどっか行っちまうし、嫁の内心も分からないぞ。育児に参加しろ、育休を取らせてやれ。

 しかし件のかぐや姫はそういった角の取れ方は全くせず、育てば育つほど賢く美しく、そして奇妙になっていった。とりわけ彼女は欲しいものや行きたい場所を臆面もなく指差す癖があった。三味線の音色が気に入れば座敷の裏を歩く野良猫を指で追い、通りがかりの奇術師の見世物を見ればタネの在りかを指差して笑った。完全に賢さが悪い方に出ていた。

 五人の貴公子がかぐや姫のもとを訪れ、何を思い上がったのか、全く気の進まぬ結婚を提案してきたときには、かぐや姫の指はずいと真横に持ち上がり、自分がひととき世話になっている家の納屋の方を指差していた。実際は、その納屋の角の葛籠つづらに仕舞われた、小さな手鞠をさしていた。
 自分が竹の直径に収まる体躯から8月の茄子の様に急成長する途中、ほんのひととき「ふつうの子供」のようだった時分に与えられ、そしてその姿が気品を纏うようになるや取り上げられた手鞠のことを。滅茶苦茶な難題を口にした時、彼女は孤独だった。

 しかしそういった奇行は概して後の世に伝わらない。話には尾ひれがつくが、どちらかといえばかぐや姫の話はひれを落とされ整えられてしまった。かぐや姫の切り身。普段見ていたのはかぐや姫の切り身です。水族館に行くと本物が泳いでるから、子供が大きくなったら連れて行ってあげるといいよ、西武線の彼。

 日が経つとかぐや姫は、月を眺めて泣くようになった。「今は帰るべきになりにければ……」と、家の端に出て座り、人目も憚らずしおしおと……
 ここまでを読んだ皆様なら既にお気づきだろう。この描写は事実ではない。彼女は月夜に一人やおら泣くようなタマではなかった。当然、ぐいっと月を指差した。なんなら三代目J SOUL BROTHERSばりのランニングマンで斜め上に両手の指を突き上げ、月明かりの下でバキバキに踊っていた。文面と整合するのは「人目も、今はつつみ給はず(人目もはばからず)」くらいである。筆者と編集者の苦心が透けて見える。翁もそりゃびびって止めただろうよ、いい歳した娘が深夜の軒先でズンドコHIP HOP始めるんだから。

 今日の帰り道、ふと空を見て、月を指差した。夕飯時も過ぎた(奇妙な言い方だが)ひとけのない住宅街の真ん中、かぐや姫の様にステップを踏む勇気も動機もなく棒立ちで。指差した理由を聞かれても困るのだから、その行動は一応奇妙に違いないが、綺麗に出た月というのは往々にして一人の人間にそういうことをさせる力を持っている。

 思えばかぐや姫が月を指差したのも、月に帰りたかったからとは限らない。三味線を求めて皮を、愉快さを求めてネタバレの気まずさを、自由を求めて手鞠を指差す女だったのだ。求めたのが月そのものでなかった可能性の方が高い。案外、月の実家の合い挽き肉カレーとかが恋しくなってただけかもしれない。先払いでカロリー消費してたし。

 思えば私たちが月を指差すのも実際、月が欲しいからではない。「お月様、手に取りたい」は、本当に心からそれを欲していた、人生のうちのほんの僅かな貴重な期間を除けば、手に入らぬ輝きを求めてしまう自分自身の、輪郭と手触りを確かめるために口にする言葉に他ならない。宇宙飛行士をマジで目指してる人は別かもしれない。宇宙飛行士をマジで目指していても今どき逆に月には行けなさそうな気もするが。
 しかし、昔から世界中の人間たちが、月の模様をウサギでもカニでもカエルでも好き勝手言ってきたのはまあ、そういうことだよ。月にはちょっとした物思いを引き受けてくれる、想像力の働く余地がある。思い出の中の赤い屋根の家と似ている。
 だからふと孤独の底で月を見上げてしまっても、そんなに寂しそうな顔をせずに、みんなも踊ろう今夜は。脚の悪い方、高齢の方は座ったまま行っていただいても大丈夫です。翁も最終的には止めるのをあきらめて、腰掛けたままかぐや姫の隣で一緒にズンドコしてたからさ、本当に。


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