では、夢で会いましょう。

今朝、目が覚めて、私は一つの考えに囚われている。その考えを、少し遠回りになるが聞いてほしい。

眠っているとき、自分の見た夢から何かを教わることがある。そう言ったらどう思うだろうか。
そんなものは思い込みや迷信や、白々しい勘違いの類だと思うかもしれない。だが、必ずしもそうではないのだ。
人は自分の夢から新しく何かを知るということが、本当にある。

こんな夢を見た。
ある巨匠が手塩にかけていた双子の弟子が若くして亡くなった。周囲から将来を有望視される二人だった。二人は大いに惜しまれ、世界は悲しんだ。

それから長く経った。
私には弟がいた。近頃あまり話さなくなり、何に興味を持っているのかもよく知らないが、それでもどこか自分に似た弟だ。
ある日、私と私の弟は巨匠から、彼が開いているレストランの、ごく秘密裏なディナーに招かれた。
静かな夜にそこを訪れ、閉め切られた店の中、落ち着いた明かりのカウンター席に私たちは通された。

弟の席には風変わりな品が置かれていた。
白く大きな、薄く仕上がった陶器の皿が少しだけずらされ二枚重ねて置かれている。本来一枚ずつで使うはずの食器が強引に重ねられ、しかし周りにあしらわれた朱色のテーブル飾りたちと合わさって、それがこの席でのあるべき姿なのだということが示されていた。
その二枚の皿の上に、薄く丁寧に焼きあがったパンケーキのようなものが二枚(私の知識ではそれをパンケーキとしか例えられなかった)、選ばれた果物と、クリームと、深い赤色のソースを添えて盛り付けられていた。その意味は明白だった。
巨匠は双子の全てを弟に引き継がせるつもりなのだ。
一方、私の席には一つのパフェが置かれていた。ごくありふれた、珍しくもないイチゴとクリームのパフェに、長いスプーンがついていた。
私たちは巨匠の立つ調理場に面したカウンター席の、少し離れた並びに座り(巨匠の姿はかの蜷川幸雄に似ていた)、それぞれ目の前の料理が小さなスポットライトの中に浮かび上がるのを見た。それぞれの使命と運命が、食器の上に渦巻いていた。
そしてそれだけで済めばまだよかったのに、それだけでは済まなかった。
私はイチゴを刺すためのフォークが必要じゃないかと考えた。
席のすぐ近くにスプーンやナイフやフォークやナプキンがまとめて入れられている棚があったので、そこをガシャガシャと音を立てて漁りはじめた。
その場で行われる神聖な儀式から、私は完全に浮いてしまったのだ。

……そんな夢だ。
この夢を、たとえば先の見えない作家志望者(つまり私だ)の不安感の比喩として現実に汲み上げることも容易いけれど、私がそのとき考えたことは少し違った。
私は目覚めるとき、書くことは自分自身が考えるためである、ということについて考えていた。
書くことが思考を整理し、促進するということについては既に多くの人によって語られているし、私もそれに得心している。では、書いたものをひとに見せるということについてはどうか。それは必ずしも必要ではないのだろうか。
ある文章を書いて、しかしほとんど人に読まれることがなかった時に、それは果たして思考として機能しているのだろうか。
私はそれが機能していないことに気付いた。前述の夢を通してだ。
(具体的になにをどう受け取ったのかを説明することも可能だろうが、それは却って正確さを損なうように思うので割愛させてほしい。夢は私の中にあったものをある形で並べなおし、私はその「実際に現れた」配列に触れてそのときただ曖昧に解釈を得たのだ)

もちろん、たとえ人に見せなくても、書くことをした時点で思考は助けられるだろう。その点は間違いない。だが、書くことで考えるという行為にはもう一つの構造がある。以下をイメージしてみて欲しい。
今、私が何かを書き、それが多くの人の目に触れたとする。ある人はそれを解釈し、またある人はただ眺めて、それからそれぞれの生活や活動へと還る。すると、それぞれの生活は私の文章を経た人々の生活になる。具体的に彼らの生活が何も変わらないとしても、意味付けとしてはそうなる。そして、その人々が混ざった社会を見て、いつしか私は再び何かを書き、また人に見せる。この全く不確定な循環が、しかしもう一つの「書くことによって考える」ということだ。
この循環をなくしては、人に見せるためのものを書いている私は、考えていることにならないのではないか。私は書いたものを、できるだけ多くの人の目に触れさせる方法を考える必要があるのではないか。そうであれば、私が考えるということは、自分の体の中だけではできないことになる。これは難儀だ。この循環を実現するには多大な努力を要すると同時に、運や巡り合わせさえ必要になる。それは遠大であると同時に、とてもか細い試みだろう。

今、寝床から起きた私はコーヒーを淹れ、現実の弟が作ってくれたきな粉のケーキを冷蔵庫から出して食べながら、この文章を書いている。
脳裏に巡る、考えることの遠さを思って未来を不安に思いながら(結局不安なのだ)、しかし同時に心穏やかでもある。
この文章を目にした人や、その周りの人、もしくはそれらと辿れぬほどに遠く繋がる誰かが夜に眠り、そして見た夢を通して、その人さえ知らなかった何かを新しく知るときがまたいつか来るだろう。
目覚めたその人が、新たに文章を書くのか獣を狩るのか、もはや私の想像は及ばないが、それらの遠い営みに私が何かしらを介して触れることがあるとすれば、私もまたその人の考えるための試みの一部になる。そうして世界は考え続ける。

その考えの循環を通して、それぞれの夢から覚めた彼らと遠隔的にこの朝のテーブルを共有し、ケーキを分け合ったりするようなことができるのか。いわゆるそんな夢を、私は見ている。

#エッセイ #小説 #夢

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