見出し画像

人生を悪い方へ

 私にはとにかく、あらゆる物事を悪い方へ悪い方へ考える癖がある。今のところおそらく人生の芯までその癖に蝕されている。悪い考えに真剣に囚われている最中はやはりたいへん苦しい思いをするものだけれど、一方で、この癖は別段よくないことばかりではないのだろうということも、今は思っている。
 そのことについて、つまり、想像するということについて少しだけ長く、話そうと思う。

 この悪く考える癖はかなり昔からある。覚えている中で一番古い記憶としては、おそらくまだ幼稚園児だったとき、「クリスマスは一年間いい子にしているとプレゼントが貰える」という習わしをはじめて認識するやいなや「ああ、それじゃあ僕は何ももらえないんだ」と即座に思って、欲しい物の考えを放棄した覚えがある。幼稚園児、卑屈が過ぎる。
 思うにこの癖は極端に、自己評価の低さと言うか、自分自身をよく思わないことに起因するらしい。

 さて、この話を続けるにあたって今から一時的に話題が遊離するが、わりあいすぐに戻ってくるので少しばかり辛抱して読み続けて欲しい。席を空ける間荷物を見ていてくれるような親切心でもって読み続けて欲しい。あとは、せっかく今日は二人で酒を飲み始めたのに、注文して即座にトイレに立ってしまうあいつを待つような気持ちで。

 いつの間にか昔から自分に着き纏うイメージや光景という物が、誰にも一つや二つあるものではないかと思う。私にはいくつかある。その中でも強烈なものは何度も思い出されてはその度にどんどん強化されて、より大きな存在として自分の中に定着していく。
 たとえば、これはたしかごく幼い頃、高熱のときに見た夢が最初だったはずだ。

 自分はなにか工場地帯のような、分厚い鉄の四角い建物と大量の太いパイプが、大きなナット締めで繋がれた灰色の群れの中で、同じく果てしなく続く鉄の足元の上に立ってそれらを眺めている。親しかった者たちは目の届く場所におらず、恐らく二度と会えないことを私は知っている。私は既に選択を間違えたのだ。そして、思えばこの鉄の塊は北アメリカ大陸ほどの巨大さを持っていて、その巨大さでありながら今も海の上を航行している。自分はその上に一人いて、ふと、世界すべては手遅れだ、ということに気付く。

 ……そういう夢だ。
 この、具体的なような抽象的なようなイメージは、熱があるときの夢にいかにもありがちな荒唐無稽さでありながら自分の中でなんとなく看過できない重要さを持ち、その後何度も思い出されながら形をたしかにして自分の中にしっかりと居座るに至った。
 自分が人生で最も「間違えた」ときに行ってしまうかもしれない果てしない場所のイメージとして、この鉄の巨船は今も私の中に浮かんでいる。

 さて、ここからもとの話に戻ってこられる。荷物ありがとうあと乾杯待たせてごめん。あーここのお通し、煮た豆か。

 私にとって、物事を悪い方へ考えることの象徴になっているひとつのイメージがある。これはクリスマスプレゼントや鉄の巨船と違って、いつ頃、どのようにして自分の中に現れたのか全く記憶していない。しかし、相応の説得力をもって私の中で何度も思い出され続けている。こんなものだ。

 あまり大きくない教会の中で今まさに結婚式が行われている。縦に細長い窓とステンドグラスから直線的に光が差し込んでいる。神父の前には正装の花嫁と花婿がいる。花婿は、私だ(今これを読むにあたって、花嫁、または花婿が「あなただ」と想像して読み進めてもらって構わない)。
 式の参列者たちは中央の通路を挟んで両側に、木製の席からその場で立ち上がって整然と並びこちらを見ている。神父が粛々と儀式を進めている。親しさと祝福の空気がある。空間は静粛で、上の方にごくわずかに埃が舞っているのが窓からの光を浴びて見える。
 その時のことだ。突然、静かに、しかし迷いなく、全員が懐から拳銃を取り出した。私(つまり、あなただ)を除く全員が。そしてそれをこちらに向けている。誰も何も言わず、目を逸らさず、静かにたくさんの銃口が自分を向いている。神父だけがただ元のままで平然としている。誰の表情からも、特別に強い憎しみを感じるわけではない。ただ、並んだ拳銃は私を撃ち抜く気でいる。
 そしてそれを見て、私は「ああ、やっぱりか」と心のうちに思い、ただ成すすべなくその場に立ち尽くしている。

 繰り返し繰り返し、私はこのイメージを折に触れて思い出し、その度に映像は克明になっていった。おそらく私が、どんなに自分にとって都合がよいはずのときでも、そのすべてがいつの間にか自分を離れていかないとは限らない、ということを心のどこかで思っていることと噛み合っているのだろう。

 ……とまあ、このくらい私は、もしもの悪い方向へと想像が働いてしまうのだが、はじめに言ったようにこれはそんなに悪いことではないだろうとも思う。本題はこっちだ。
 つまり、「そこの柱の裏に包丁を持った人間がいるかもしれない」という想像は実は、「その柱の裏に運命の人がいて、今にも私と出会うかもしれない」という想像と紙一重だということだ。
 突拍子もない悪い想像が浮かぶとき、同じだけ楽天的な想像が実はすぐ隣にある。柱の裏の殺人鬼を本気で恐れることができた人は、あの入道雲の中に藍色の龍がいるかもしれないことも同じ強度で想像する足掛かりを持っている。そして式場で花嫁と参列者が拳銃を向けてくる光景が克明であるほど、弾丸の飛び交う戦場のどこかに愛が現れる可能性を真剣に見ることができる。

 想像するのがいい。

 誰しも物事を悪く考えることがある。それをもっと膨らませてしまったらいい。ちょっとした不幸ではなく、もっと最悪の不幸を。経験したことのないような滅茶苦茶な破綻を想像してしまうのがいい。
 そして考えるうちに薄らとでも嫌な想像が真実味を帯び始めた頃、同じだけ破天荒な幸福の可能性もたしかにそこにある。世界はそうやって広くなる。
 想像すればするほど、目に見えるほかに無数の可能性があることを知っているために言い切れることは減っていく。整然としていたはずの世界は混沌としていき、分からないことの方がずっと多い場所に私たちはいることになる。

 そうしていくうちに、互いが広い広い想像を持つようになったなら、いつか出会う相手をふと嘲りかけたときに、その裏側に実は見えていない道のりがあって、まだ嘲るには少しだけ早いんじゃないかと、互いに思いとどまることがあるかもしれないという、

 そんな想像はまあ、いいんです。そんないい想像はあとまわしでもいい。
 とにかく人生を悪い方へ、悪い方へと想像する。今もこの文章が原因でどこかの誰かにあざ笑われたり、誰かにひっそりと見切りをつけられたりするかもしれないと思っている。自分のしたことの何が決定的によくなかったのか計り知れない。恐ろしい、恐ろしい、持病の咳も止まらない。

 でも、人に見せるのをやめようとは思わない。未来というのはほとんどの場合、想像した通りにはならないものですから。

(写真:マツオカナ
 Twitter:@kana5806)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?