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子連れコワーキングスペースを作るまで①

11月25日、オープンセレモニーをしてから1年を迎える。まだ記憶があるうちに、コワーキングスペースBreathを作るまでについて、自分の言葉で残しておきたいと思い書くことにした。

『読みたいことを、書けばいい。』という田中泰延さんの本を読んだばかりなので、自分が読みたいと思うものを書いてみたいところ。長くなりそう。

まず「子連れで行ける」コワーキングスペースを構想するにあたり、自分自身が出産を経たというのは大きいが、そもそも「自分の自由になる空間が欲しかった」というのが前提にあったように思う。

というのも、2013年に会社を辞めて、社労士3年目であった母に合流し、行政書士などの業務をともにし始めてからというもの、事務所移転を繰り返すなかでセミナーだとかワークショップだとかをする場所を欲していたというのがある。

最初に借りた事務所は高級シェアオフィスだった。いろいろ見たが母がここを気に入って、えいやで借りてしまったのである。基本的に私たちの場合は訪問することが多く来てもらうことは少ないので、作業場として借りた(士業ルールも鑑み)。しかし、特に作業したい土日にビルがきちんと機能しないこと(エアコンがつかないとか、早く閉まるとか)や、まぁとにかく高いというのが懸念で1年で撤退した。

地元三鷹に戻り、次はファミリータイプのマンションを借りた。駅から5分ほどで、メインストリートに面していたので、夏は上から圧巻の阿波踊りが観られた。それもあってここで経営者や就活塾生の交流会をするようになり、人が集まる場としては機能するものの、マンションということから雰囲気は家っぽいのが難点だった。おうちパーティーには良いがまじめなセミナーなんかは合わないのである。

で、そんなことから固定費削減のために自宅兼事務所へ後戻り。しばらく外に借りるのは辞めようという話になって(やはり2人とはいえ固定で20万が出ていくのはなかなかに厳しい…)、母も両親の介護を考え家で仕事をできるようにしよう、私も結婚し、同棲していた杉並から三鷹に戻って家を借り、地元で作業ができればいいや、子どももすぐできるかもしれないしなどと考えていた。

その間は自分でやっていた就活塾は外で部屋を借りたり、保険会社の知人に協力してもらい会議室を拝借したりしてなんとか継続していた。でも、集客できないときもあるし、常設でない分なかなか難しいなと感じてもいた。

そんななか、結婚から1年半が経ちようやく子どもができた。すぐにでも欲しかったので、本当に嬉しかった。これまで続けてきた事業は右肩上がりにしていきたいという想いで、ぎりぎりまで仕事を続けた。ちょうど法人化して1年が経つのを目の前に、出産を迎えることになった。

夫には変と言われるが、私はずっと仕事をしているタイプで、趣味もないし、休みの日という概念もあまりないために、毎日少しでも仕事に触れるという日々を送っていた。自営業なんてそんなもんだとも思うが、特にそれに対してストレスがないのでそうしてきた。

産後はどうしようかと思ったが、顧客訪問を月1回する契約になっていたので、それを続けるためにどうすればいいか考えた。そこで、予定日の8月25日から逆算し、8月1週目でアポは組み終え、次のアポはお願いをして9月の終わりに組むようにした。アポが終わった瞬間から「早く出てくればその分休める!」とたくさん歩き(2017年8月東急の階段を上り下りしていた妊婦は私です)、予定日より約1週間早く出産となった。

歩いた効果は不明だが、陣痛が来る前日に添削し終えた原稿をポストに投函したので、精神的な解放もあったのだと思っている。常に何かに追われる生活である。

さて、産後というのはとにかく睡眠不足の毎日だ。もれなく私も発狂するかと思うくらい(夫に言わせれば多分していた)、眠いことによる精神の荒れがすごかった。原因が分かるからこそなんとか正気を保てるが、おかしくなりそうなときは何度もあった。

1週間も仕事から離れると、メールを返すのも激遅になった。これにはびっくり、やはり体は鈍るのである。スポーツ選手と一緒、毎日やることが大事なのだと痛感した。うまく仕事ができないのも私にとってストレスだった。

3週間くらいすると、いよいよアポの時期となり、本格的に復帰である。もちろん仕事の仕方は変えて、1日3件いれていたアポは1件に絞り、家族を誰か必ず連れて、都心へ出かけた。1度くらいは挨拶がてら客先へ同行することもあったが、あとは近くの百貨店で待っていてもらった。おむつ交換ができるからだ。乳幼児のおむつ替えの頻度は凄まじい。1時間に2回なんていうのもざらだ。ほとんどの荷物がおむつである。

私の場合は母乳がよく出たので、自分の体のためにも母乳をあげていた。この頃は2時間に1度は授乳しなければならない。百貨店で授乳をし、家族と赤子を残して客先へ行き、戻ってきてまた授乳をし、三鷹へ帰るという日々。1日で済んでいたものが3日以上かかるようになったわけで、なんとまぁ効率の悪いこと。仕方がないことだが、スケジュールの限界を実感する。とにかく時間がない。そのうえ百貨店のような施設を拠点に動かなくてはならないため、異常なほどの移動ロスが生じた。どのエリアでも困らない世の中になれば良いのだがまだまだそうもいかない。とにかく駅のエレベータートラップは早く何とかして欲しい。

そうこうしているうちに、夫が3ヶ月の研修でベトナムに旅立った。あれだけ産前に行けと言ったのに、会社との折り合いがつかず産後に行くことになった。キャリアVSキャリアというやつである。産前はこのことでずっと喧嘩していた。業務ならまだしも研修に手を挙げたのだ、このときのことは一生忘れん(と夫にも言っている)。

ちょうど年末年始にかかるところだったので、何を思ったか私も1ヶ月だけは合流することに決めた。生後3ヶ月から6ヶ月頃という大事なときに、夫婦で育てないのはいかがなものかという私見からである。言うならば子どものためというよりは、今後の夫婦のためである。11月に夫が旅立ち、私は12月中旬からちょうどビザがとれるひと月をベトナムのハイフォンという港町で過ごすことにした。小児科の先生が止めたら行くのをやめようと思っていたが、別にいいんじゃない?と軽く言われたのでなんだそうかと拍子抜けしたもんだ。

仕事のときに毎日のように連れまわしていた私の母と妹に礼を言って、生後4ヶ月の子を担いで、7時間ほど飛行機に乗ってハイフォンへ行った。私は大学卒業後から海外旅行に行った人間だが、それまでに数回は海外に行っておいて良かったと思った。こういうのは慣れがないと怖くてできない。

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↑機内のおむつ交換台にて

ハイフォンに着いてゲートの外に夫が見えたとき、やれやれと思ったが向こうは相当嬉しそうだった。彼のほうがひとりでまいっていたのである。異国の地にひとりというのはそりゃ大変なものだ。

現地での暮らしは穏やかでとても良かった。ある意味アポもないので、私とってもいい休みになったと思う。ひとりで抱っこ紐をして散歩をしていると、じろじろ見られるが皆とても子どもに優しい。15度から20度くらいあるのに現地の人はすごく寒がりで、薄着で歩く私たちを見ていつも駆け寄ってきては「さむい!さむい!」(もちろんベトナム語で)と赤ちゃんの足を指さしていた。足が出ているのが信じられんと。毎日言われるのでストールで隠すようにしたら、しまいにはおでこを指さすものだから笑ってしまった。彼らは15度でダウンを2枚重ね着している…

夫の職場は大きな病院で、そこの懇親会にも誘ってもらい何度か行った。授乳するところがないので食堂のバックヤードみたいなところでしていると、スタッフのおばさんたちが口にがんがん食事を突っ込んでくる。く、くるしい…そして服をまくられ赤ちゃんがちゃんと飲んでいるかを確認する。文化というものはいろいろである。愛があるので嫌な気持ちはしなかったが。

クリスマスには店で出されたお湯にあたり、海外で初めてお腹を下した。何度もトイレに走るのは、授乳しながらの身にはかなりつらかった。日本で迎えないお正月は不思議なものだった。テレビも見ないし、おせちもない。日本料理店でお雑煮として出てきたのは、薄いお吸い物みたいなものだった。一応それで正月を迎えたということにした。

1ヶ月はこうしてあっという間に過ぎた。途中、週末を利用してタイにも出かけた。ハイフォンから2時間飛行機で行ける。ハイフォンとは打って変わって暑かったが、ちょっとしたリゾート気分を味わえたのは良かった。タイから戻り1週間で帰国の途に就いた。

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↑タイでの1枚

夫は名残惜しそうだったが、あとひと月ということもあって来たときとは違っていた。日本はもっと寒いんだよなぁと思いながら帰ってきた。帰国してすぐインフルになった。相当疲れていたのだろう、インフルなんてなった記憶がないくらいなのに。インフル×ワンオペはしんどすぎるので翌日実家に避難した。

それから私は日常を取り戻し、夫も帰ってきてまた3人での生活が始まった。春は採用シーズンなので毎年繁忙期である。地方出張も多く、それもまた家族と赤ちゃんを連れて出かけた。金沢、京都、沖縄…ベトナムに行ったのだからもはや何でも大丈夫だという自信があった。

実際、ここまではなんとか普通に仕事ができていたように思う。非効率なスケジュールでできる量に限りはあったが、それでも仕事自体はこなせていた。右肩上がりにしたいという目標も守っていた。しかし、1歳に近づくにつれ子どもから目が離せなくなってきた。1時間で終わるPC作業に3時間かかる。いらいら。

この頃には授乳感覚は3~4時間になっていた。離乳食もやっていたし、そういう意味では徐々に離れられる時間は増えてきた。しかし家族に頼るにしても母と妹はさすがにこれ以上無理だし、自分で見なければならない時間もある。

保育園に入れれば良かったんじゃというのも言われるが、この頃は待機児童も多く、自営業なんだからなんとか頑張ろうと勝手に思っていた。これはほぼ自己満足の世界なので、あまり気にしないで欲しいのだが、なぜだかそういう大変な状況を自分で創り出すのが好きなのだと思う。子連れ出勤、子連れ会議、なんでもやってみれば良いじゃないかという気持ちで、なぜだか挑戦していた。この辺のチャレンジ精神は本当に自分でも謎である。

海外から帰った夫にも、だいぶあたっていた。なんであなたは子連れ出勤しないの?子どもと会議出てみなよ。できないのは分かっているので言うだけ言いたいというやつなのだが、夫を通して会社、社会に対するいらいらをぶつけていた。

夕方客先から戻ってきてから、吉祥寺で子どもを遊ばせる。まだ公園で遊べるような歳ではないのと時間的に暗いので、東急やコピスに行くことが多かった。キッズスペースも18時半を過ぎるとかなり空いてくる。19時過ぎに帰りがけの夫をつかまえて、1時間でいいから先に帰って見ててよ!とバトンタッチ。カフェでPCを叩くようになった。

1時間でいいから見ててよ!

これが成立すれば、こんな夜にわざわざ別行動をして仕事をしなくてもいいんじゃないか?この想いがすべての始まりである。

つづく

ああ…構想に至るまでに4500字を超えてしまった。自分でもびっくり。でも書いていて楽しい。今日読んだ本の効果が出ている。

【コラム】コワーキングスペースを作るまで②

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長い文章を読んでいただき、ありがとうございます。私の記したものが何かのきっかけになれば嬉しいです。いつも前のめりで書いています。

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もはや何足の草鞋を履いているか分からない三鷹北口のコワーキングスペースBreathオーナー、行政書士そして武蔵野市議会議員。2歳児の子育て中・第二子妊娠中。ライフワークミックスで突っ走ってます!
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