見出し画像

子連れコワーキングスペースを作るまで②

コワーキングスペースを作るまで①の続きです。①の構想に至るまでだけで5000字近くいってしまい、先が思いやられる。

さて、自分の事務所事情から自由にできる空間が欲しいと思ったところから出産を経て、ちょっと1時間見ててよ!という想いを強くしてからというもの、店を開く妄想が止まらなくなった。なんとなく時代的にいける!という勝手な考えで、まずともに事業をする母にアイデアをしゃべりまくった。

母について少し書いておく。私の母はずっと専業主婦で子ども3人を育て、40手前で社会人デビューしたという、今からは考えられない経歴の持ち主である。働きたくないからと、学生結婚したそうだ。まぁいろいろあって私たちは母子家庭になり、母の両親が香川県高松市から出てきて合流し、三鷹で6人暮らしとなった(このため我が家は讃岐弁がよく出る。祖父はうどんを飲むタイプの人だ)。

母は最初のキャリアを社食のパートから始めた。その後転職して総務のパートになり、運良く正社員にしてもらえた。私が中高生くらいのときの話である。パートから合わせて10年ほど総務経験を積んだあと、当時の会社の社労士さんが辞めるとのことで試験を受けることになり、2年で受かって社労士として独立&その会社を顧問先1件としてスタートした。おそらく彼女の半生を描くだけでも、結構な文量になるはずだ。

そんな母は割とうーんと悩むタイプなのだが、ここは経営気質も持っていて翌日になるとえいや!ができる人である。私が会社を辞めてそっちに行くと言ったときも当日はうーんと言っていたが次の日には覚悟が決まっていた。①でも書いたようにシェアオフィスを借りるときも、悩んでいたと思ったのに急に決定していた。そういうタイプなのだ。

ということでえいや!とえいや!な親子がやっている会社がBreathということになるが、私のほうがえいやレベルが高いので、私にとっては母は良きストッパーである。私はえいやが過ぎるので、周りにストッパーを置いたほうが良いと思って日々そうしているところだ。なんとなく自分の経営者像みたいなものでいくと、それで良いと考えている。事業的ストッパーは母と会計士とたまに夫ということになる。子どもがストッパーになるかどうかは未知数だ。

話を戻すとそんな母にアイデアをぶつけまくり、最初はビル構想をぶち立てた。実は三鷹北口から徒歩4分のところに土地が出ていて、そこに目を付けていたのである。最初からビル、果てしない構想であろう。でもビルごとというのは夢いっぱい。誰もが妄想する事業計画である。

1階はカフェ、グランドピアノを置いて(グランドピアノを買うのが子どもの頃の夢だった)、パーティーもライブもできる。鍋を持ってくれば今夜の一品をいれてくれる。2階は子どもと来られるコワーキングスペース。3階は会議室、4階・5階はシェアオフィス、6階・7階は住居で自分たちが住む。これだけだと面白くないので、地下も掘ってホールを作ろうと考えた。音楽イベントに、プレゼンテーションやセミナーなんかも良い。地元の人が気軽に使える空間にしたいと思った。

そんな夢を膨らませて、3億かかると言われたが本当にその土地でビルごと建てたいと目論んでいた。そこで知人にも協力してもらい、不動産屋とも掛け合って、どれくらいの建物が建つのか調べてもらったところ、ここで大誤算が起きた。都条例に引っかかり4階までしか建たないことが判明したのである。少し奥まっていて道路に面している部分が少ない土地だったので、この条例に引っかかることになってしまった。本当ですか???と何度も聞いたが、こればかりはどうやら本当のようだった(当然だ、疑ってすみません)。

これが構想してすぐの2018年7月終わりの話である。ひと月ほどで打ち砕かれてしまったが、会計士からまず賃貸でこじんまりと始めるのも良いのでは?と言われた。確かにそうだとまた賃貸探しを始め、駅近でちょっとずつ違う物件を3つ選んだ。駅の目の前のオフィスビル、駅から少し行ったところの飲食店の居抜き、そして今店舗にしたスケルトンの物件である。

まずはネット上の情報だけで会計士と話し合った。駅近は便利だが高い(実際今の家賃の倍する)、居抜きは厨房スペースが無駄になるということで、工事費はかかるがスケルトンのところが良いのではということになった。ここは駅から5分くらい歩くが、商店街の終わりで住宅地とのちょうど境にあり、飽きずにここまで歩いてこられそうだった。早速内見に行った。

行ってみるとスケルトンなので、当然ながらすべてコンクリむき出しの状態だった。飲食向けに油関係の機械を入れる掘りごたつ的な穴もあり、なんじゃこりゃ…という感じではあった。しかし、コの字型でうまくスペースを用途ごとに分けられそうなこと、先に書いたように商店街の終わりのために家賃もそれなり(公開すると33万円で80㎡)で、なんとかやれるのではないか…?という想いが少し感じられていた。ただ、初期費用は相当かかる。

母にも見せ、さぁどうしようかという段階まで来た。私としては図面からこんな使い方で行きたいと、ほぼ今の完成形の案を作り、相談した。ここからはもう、えいやの世界である。やるかやらないか、それだけだ。実際やるとなれば借金を背負う。そこに対してえいやできるかどうか。

↑こんな図をスマホで作っていた

ここまで読んだ方はもうお分かりだろう、まだ30だしいける、いつもの謎の自信が私のえいやとなった。なんとなくであるが、私は25から自営業になったので、30以降のためにできる限りのことを20代のうちにやりたいという漠然とした想いがあった。ちょうど30になるその8月に、この不動産を申し込み、9月15日から入居・工事することになった。夫にはあまり何も言わなかった気がするが、妻が借金まみれになるというのはそれなりに恐ろしいことだったであろう。結局初期費用は1500万円かかった。ほとんどが内装工事と家具代である。

こうして7月に構想、8月に物件探し・申込、9月半ばから工事を始め、オープン日を11月末にこぎ着けた。11月中にしたのは、三鷹商工会さんの「三鷹まちゼミ」事業にお誘いをいただき、11月中にイベントをやらなくてはならないという条件がついたからだ。とてつもないスケジュールである。思い出して欲しい、私は「ちょっと1時間見ててよ!」からこの事業を始めることになったが、1時間見ててよではまったく収まらない業務量が自分に降ってきた。自分にそれをまた降りかけたのである。どこまで自分を追い詰めるのが好きなのか、自分で自分が不思議である。オープン前日には乳腺炎になった。高熱が出て、倒れそうな状態。大事な前日に、情けなかったのを覚えている。

↑内装工事中の1枚

このスケジュールでどうにかなったのは、業者がほぼすべて知人であったということが大きい。当時所属していた経営者の会でチームを組んでもらい、設計から工事から全部お願いをした。関係が近いからこそ密に連絡が取れ、何度も徹夜させてしまったが(本当にありがとうございました…)、無事にちょっとの作業を残してオープン日を迎えることができた。

この3ヶ月の間、一番つらかったのは「決定を下し続けること」だった。より正確に言うと、「決めなくてはならないことがありすぎる中で決めるために多方向からいろんなことを言われ続けること」にものすごく心的ストレスを感じた。人から何かを言われるというのは、量が増えすぎるとコップから溢れ出してくるのだ。別に責められているわけではないのだが、あれはどうなっているこれはどうだどうするんだと言われ続けると、頭が疲れてくる。自分でもちょっと鬱々としていたと思う。なかなかここまで過密することはこれ以降未だないが、言われ続けることというのが人を疲弊させるのだというのを学んだ。なかなかない良い経験だった。

こうして自分をすり減らしながらも、設備だけでなくサービス内容やホームページ等の広報物、どうするこうすると決めていった。10月からは初めてのクラウドファンディングにも取り組み、地域の皆さん、昔からの知人友人、たくさんの方に応援していただいた。クラウドファンディングのやり方が分かりにくいというので銀行に直接振り込んでくださった方も多数いた。結局1ヶ月で90万円ほどを頂戴し、こんなにしていただけるのかと心底嬉しかった。

11月25日、クラウドファンディングでチケットを購入してくださった方々を主に招いて、オープニングセレモニーを行った。友人にケータリングを頼み、お洒落な食事をつまみながら地域の輪が広がった。実は私はこれまで地域の繋がりがあまりなかったと言っても良い。今となってみれば日々Twitterでたくさんの地域の方とのコミュニケーションがあるが、当時はまだ子どもが保育園にも行っていなかったし、仕事ばかりしていて子育て広場的なものにも全然行っていなかった。自営業の世界くらいしかなく、それもほぼ都心で、地域の友達みたいな繋がりはないに等しかった。そんな私に、「地元」ができたのだ。クラウドファンディングの成果はこっちにもあった。

こうして翌日の26日から営業を開始した。残工事が多少あったが、ちょこちょこ進めつつ、まずは年内、そしてサービスの完成形は春にというめやすで動くことにした。初めての店舗運営だったので、やりながら考えていくしかないというのが正直なところだった。言ってしまえば1年を迎えるのに今も微調整を繰り返している。なんとか料金とベースとなる規約、仮のホームページだけある状態でスタートしたという感じだった。手作り感満載で、都心のコワーキングスペースに行き慣れている方なんかからすればなんじゃこりゃというところも多かったに違いない。

この1年の紆余曲折はまた書きたいと思うが、つい先日には消費税の対応で本当に大変な思いをした。店舗サービスはこういう苦労があるのかということを知った。今、直面しているのはもっぱら「今後のサービスをどうしていくか」である。

周囲の状況は大きく変わっている。当初からすれば待機児童はこのエリアではずいぶんと減った。あともう少しで、余裕も出てくるだろう。そうすれば一時保育の空きも多くなるし、柔軟性の高いサービスが行政からも生まれる可能性が高い。そうなるとうちのような子どもと一緒に来る施設というものの価値基準が変わってくる。次の1年はそれを見据えて、進化をしていかなくてはならないフェーズに入ると思っている。実際事業としてうまくいっているという評価はまだ下せない数字だし、改善は常に求められている。

また、私自身にも大きな変化があった。市議会議員になったことだ。この子連れコワーキングスペースを作ったことで白羽の矢が立ち、子育て世代として政治に挑戦することになった。確かに乳幼児の親が誰も議会にいないというのはおかしいと思ったので、やってみることにした。半年ほどが過ぎたが、やってみて正解だったと思う。想像で語るのと当事者が語るのは違うからだ。これについてもえいやで挑戦したわけだが、本当に自分の謎の自信と体力を疑う。

こんな風にしていろんな草鞋を履きながら、コワーキングスペースと市役所を拠点に日々活動を続けている。いつまで、どこまでできるのか分からないが、共通するのは「自分の暮らす場所の価値を作っていくのは自分だ」ということだ。この想いは今、夫にも移っている。最近彼の口からこの言葉が出てきたのには驚きと喜びがあった。自社のスタッフにもそう思って自分たちのためにも働いて欲しいし、そのうち子どもにもそう伝えるかもしれない。

目の前の人の役に立つ、これを仕事のポリシーにしてきた。家族も、友人関係もきっとそうだ。コワーキングスペースBreathは痒い所に手が届く、そんな空間でありたい。気づかないこともあるのでぜひ「あったらいいな」を教えて欲しい。おもいをかたちにするのは得意だ。えいや!が私にある限り(いつかビル建てられる日来るかな~)。

「子連れコワーキングスペースを作るまで」
おわり

コワーキングスペースBreathホームページはこちら

【コラム】「人は何歳でも変われる」夫の話

読んでくださりありがとうございます。お役に立てましたら幸い、いつも前のめりで書いています。