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珈琲日記#10~地元の喫茶店に行ったハナシ

コロナ禍とはいっても、夏休みはいつものようにやってきた。とはいえリモートで課外活動をしたりインターンをしたりという「夏休みじゃない日々」が続いているので夏休み感がない。外出をかなり自粛していたが、SNSを見ると思いの外みんな遊んでいる。地元の喫茶店に行くくらいはいいか、と行ってみた。一時間に一本のローカル線に揺られて20分。市街地に出てみた。

モータリゼーションや郊外のショッピングモールの建設によって空洞化した中心市街地。駅ビルにはチェーン店しかなく、シャッター街と化した大通り。そんな地元があまり好きではなかった。

しかし自分が上京した後、中心市街地の活性化プロジェクトが立ち上がり、少しずつだが活気が戻ってきた。チェーン店ではない独自の店が、ぽつぽつと立つようになった。

数年前に新たにできた喫茶店は、レトロなテイストだった。さくらんぼの乗ったクリームソーダや、銀食器に盛られたプリンアラモードなど、令和から昭和に戻った気分になるカフェだ。

珈琲もこだわっていて、マスターが心をこめて入れてくれる。少しの談笑とホンジュラス豆でフルーティな珈琲。そんな時間が幸せだった。

日本のカフェは、エンターテイメント的な要素が強い。インスタグラムの普及で、カフェという空間や飲み物が物として消費されている。これは海外でも当てはまるかもしれないが、昔からカフェ文化があったとはいえない日本だから、カフェはいつだって「ハイカラなもの」という娯楽なのだろう。一方、西洋はそうではない。カフェや珈琲は「日常の一部」で人々の生活に浸透しているものだ。日本は、カフェに「遊びに行く」。西洋はカフェに「ルーティンとして行く」ような感じだろうか。

日本にあるのにも拘わらず、今回行った喫茶店は「日常の一部」のようだった。イギリスに留学していた時に行ったカフェのような、生活感があったのだ。

チェーン店のように、生産性を求めるものではない。正直、経営は良くないかもしれない。それでも、こんな地元ならではのカフェがあることで、地元の人々がゆたかになるはずだ。遊びではなく、生活の余白として、なんとなく立ち寄れる場所は実は大きな意味を持っているのだ。

コロナ禍で、不要不急の是非が問われてきた。人間は生きているだけで不要不急。カフェ自体が、不要不急の大切さを人々に教えてくれているのかもしれない。

自分とフェイスシールドをつけたマスターしかいない小さな喫茶店で思ったことである。

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