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人の中身は入れ替わるか

 いきなり例え話から始める。

 ケース1、旅行からの帰宅。
 久しぶりの海外、夜遅くまで遊び回って次の日早朝のチェックアウト。昼の便で元の生活へ帰る。まるで長い間空けていたような錯覚を覚える自室でスーツケースを開ける。荷解きをしながら、今朝起きたときはまだ外国にいたんだなぁとなんだか不思議な気持ち。「ほんとに数時間前まで海外にいたのかなぁ」とふわふわとした余韻。
 このとき、海外にいた今朝の自分を中身の違う別人のように錯覚する。

 ケース2、友人との口喧嘩。
 勢いに任せて思いついたことを矢継ぎ早に相手に投げつける。まさに「売り言葉に買い言葉」状態。帰宅して酷く落ち込む。「なんであんなこと言ったんだろう」と後悔する。
 しかし、その言葉は同時に疑問を孕んでいる。まるで当時の自分は今の自分と別人であるかのように。

 そう、人は過去の自分を別人と錯覚することがある。そして、僕はその境目は「急激な変化」にあると考えている。

 僕は時折、「君ってこんな性格だったっけ?」と言われる。ひどい時は一週間前に会った友人にすら言われる。何がそう思わせるのかと言えば、もちろん受け答えだろう。人は過去の会話をもとに相手の人物像を自分の中に作り上げる。
 学生がよく発する「キャラ」というのはこのことだ。そして「お前そんなキャラじゃないじゃん」というのは、「私の中で完成された人物像があるんだから、予測を乱すような言動は控えて欲しい」という感情の現れなのかもしれない。
 しかし、相手が自分に対して別人と錯覚するように、自分自身もまた自分のことを別人と錯覚することがある。こちらの方が何倍も厄介だ。
 先述の通り、境目は「急激な変化」だ。大きく分けると「環境」の変化と「感情・考え方」の変化。そして、別人と錯覚してしまうのは、この急激な変化についていけず、後々その記憶に実感を持てないからである。
 まずは環境。
 これは中学から高校に上がったり、旅行先から帰宅したときに起こる。実際、目の前に見えている世界が全く違うのだから変化を感じるのは当たり前のこと。しかし、理屈では分かっていても頭はそれに追いつかない。つまり実感がないのだ。このとき、境目の前後で切り離されるような感覚を覚える。記憶の前後の僕も切り離される。
 次に感情・考え方。
 特に感情が激しく揺れると、普段と違う振る舞いをしてしまう人がほとんどだ。しかし後になって冷静に考えると、その振る舞いは自分の思っている自分ではない、と感じる。辻褄を合わせようとするも、やはりその場面だけは普段の僕ではないような気がしてならない。つまり、あれは僕ではない別人に違いないのだ。 
 これらのような場面で、僕は「あの時の僕は中身が違う別人だったんじゃないか」と恐ろしくなることがある。背筋が寒くなるような思いをする。もしかしたら、僕と同じように感じた事がある人が大勢いるのかもしれない(実際にそうであってほしい)。
 理解の追いつかない記憶というのは、夢から目覚めたような実感のなさを生むのである。

 結局、何が言いたいのかといえば、「確固たる自分自身」というのは意外と脆いものであること。そしてそれは人の内面、つまり考え方は頻繁に変化しても何一つおかしいことなどないのだ、ということに繋がる。
 巷で「この人言ってることが前と違う」という非難を耳にすることが稀にある。しかし、人の内面は頻繁に変化し得るものであり、他人がその一部分を垣間見て、その「キャラ」もとい人物像を作り上げてそれを相手に求めること自体が途方もない無茶振りなのである。
 「昨日と同じ君」がいなければ「昨日と同じ僕」もいないのだ。

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