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カップの底が見えるまで

「溺れてしまいそうだ」と君は言った、りはしなかった。そんな事は一つも口に出さないまま齧りかけのブラウニーをただ見つめて、僕は画面のこちら側でその様を見ていた。君がかけてほしい言葉も何も言わないでほしいのかもわからず、ただ。

その努力が葛藤が見えていたらもっと寄り添った言葉が言えただろうか。あるいは傍にいられれば暖かい紅茶やココアくらい入れてあげられたかもしれない。ぐるぐる回る頭とは裏腹に指先は画面の縁をなぞるだけだった。

非常事態だとは飲み込めていても、会いたい人に会うことすら禁じられているような日々に辟易する。溺れてしまいそうなのは僕も誰も同じかもしれない。もちろんそんな事は何の救いにもならないのだけれど。

とぷり、マグカップに注いだロイヤルミルクティーに角砂糖を溶かしながら、君が好きなアールグレイの飲み方はなんだろうと考えていた。僕はまだこんなにも君のことを知らない。
ふうと息を吐けば舞いあがった湯気に視界がぼやける。立ち上る甘い香りに気持ちが緩んで、ようやく僕は自分の体が強張っていたことを知った。知らないことはまだまだある。知っていくためにできることもきっと。

これを飲み干したら、と小さな誓いを立てて壁に背を預けた。隣家から漏れ聞こえた笑い声に浮かぶ羨望をミルクティーと一緒に飲み下す。なみなみ注いだカップの底はまだ見えそうにない。
これを飲み干したらまた頑張ろう。頑張れる。だから今はもう少しだけ、甘いミルクティーに溺れていたい。

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