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人生ソングなんて大したものではないけど
人生ソング、という単語を聞くたびに、なんだよそれってなる。
「自分の人生の成分がつまった曲」「人生に必要不可欠な音楽」とか、たしかにあるんだけど、でもこの1曲がわたしの人生です!なんて大それたこと、言えない。
というわけでプレイリストにまとめてみた。そのときそのときの人生で、私に様々な道を見せてくれたいとおしい音楽たち、です。
1.「普通の顔」/ 村松崇継
映画『思い出のマーニー』のサウン
フェスティバルがやってきた
※それっぽいタイトルですが今更すぎるSEVENTEENTH HEAVEN開封記録です
※本当になぜいま?!という感じですが途中まで書いて下書きに眠らせていたものを発掘したからです
カムバってむずかしい。彼らを応援するために異国のおたくにできることはまずMV再生なので、そこに全力をかけるのが「正しさ」だよなとはわかりつつも、彼らが届けてくれた作品をじっくり堪能したい気持ちもあり。それとは別に、あの
思いきって手を伸ばした日
4月。海を渡ってコンサートに行った。
あんなに日本でも公演をしてくれるのに。まだ韓国語もろくにわからないくせに。使えるお金にだって限度があるのに。
自分の欲を踏みつけてくる考えはたくさんあったけれど、それでも行きたかった。行ってみたいと思った、あの場所。
会場にいるCARATそれぞれに、「ここに来た理由」があるのだと思う。だから備忘録として、私は私の、「あの場所に行った理由」「あの場所に行く
あとがきのようなもの
短歌をつくった。
詩や短歌というものは、私にとってずっと「作れないもの」「書けないもの」だった。小説もそう。書くこと自体には強い憧れがあるのに。
「言葉にする」という行為は、「そこにあるもの」を手繰り寄せて、どうにか目に見えるものに収める、という行為のことを指していると思う。
「悲しい」で済むことを、「悲しい」だけで終わらせられたら、文学なんてものはいらない。
「悲しい」の一つをとっても、
優しいってなんだろう
と、いうことを時たま考える。
優しいってなんだろう。純粋な優しさって存在するのかな。
わたしが人に優しくするのは、心のどこかでその人に「優しい人と思われたい」と感じているからで、結局その行動は相手のためというより自分のためのような気がして、だから自分は醜いとしか思えない。
ずる賢い。心から優しいわけじゃない。自分がつらくならないように、優位に立てるように、予防線を張るみたいに人に優しくしてい
ドギョムとヨントンした
ドギョムとヨントンをした。
早めに本人確認をしたら順番が1番目になった。15分ほど画面の前でそわそわしながら過ごし、所定の開始時間になってすぐに画面が一瞬切り替わった…?!と思ったら突然iPadに映し出されるドギョムの顔面。
天使がいた
以下、感想です
・いざ始まったら自分がどう映ってるのかわからず怖かった 気持ち悪いオタクの顔をしていたに違いない…
・なのでボードも全体がちゃんと映っている
많은 사랑 가르쳐줘서 고마워
年に一度のセンイルでも、伝えたいことは変わらない。사랑해요と항상 행복하세요、ドギョムに伝えたいことは、この2フレーズにすべて収まってしまう、と思う。なぜなら、自分の気持ちを自由に表現できるほど、韓国語に慣れていないから。不自由な言語で表現しようとすると、自ずと簡単なフレーズを使うほかなくなってしまう。だから、どんなに想いが募っても、私の気持ちは사랑해のワンフレーズにぎゅっと濃縮される。
それで
この物語はフィクションです
絡まったイヤフォンの結び目をゆっくりと解いて、綺麗になおすような仕事をしている。解いても解いても紐は絡まって、一つ綺麗にしたと思ったらまた新しいものがやってくる。
やりたいこと。と考えて何も思いつかずただ寝ていたい、と感じたときにまずいと思った。でも本当にそう。寒いし体も重いし、あちこちが硬くてだるい。やりたいこと、ってなんだろう。楽しいこと、は往々にしてあるけどガソリンとして使うには何かが足り
ゆく年くる年(2023)
正月という季節が昔から苦手だ。一年の始まりの日、というとたしかに区切りのよい日なのだが、あまのじゃくな自分には、一月一日の特別さがいまいち信じきれない。暦というのは人類が勝手に生み出したものに過ぎないでしょ、昨日もその前日も、そこにある太陽は何も変わらないはずなのに、なぜか一月一日というだけで有り難がられる日の出。ごく自然に親戚が集まり、みんなで同じ番組を見て、「みんな」で一緒に「おめでとう」とい
もっとみる夜が明けることは別れの意ではなくまた夜が来る夢を見ればいい
マイナスで生きているからあがいてもゼロだったのに君ってやつは
年輪を知りたいとすら思わない今のあなたは今しかいない
何も見ないで何も聞かないで何も知らないまま綺麗に咲いて