ドギョムとヨントンした
ドギョムとヨントンをした。
早めに本人確認をしたら順番が1番目になった。15分ほど画面の前でそわそわしながら過ごし、所定の開始時間になってすぐに画面が一瞬切り替わった…?!と思ったら突然iPadに映し出されるドギョムの顔面。
天使がいた
以下、感想です
・いざ始まったら自分がどう映ってるのかわからず怖かった 気持ち悪いオタクの顔をしていたに違いない…
・なのでボードも全体がちゃんと映っているか、自分ではわからない 보여요~?を言えるようにしておいてよかった ㅕとㅛの発音の区別できてないのに聞き取ってくれてありがとう…
(このフレーズもあまり丁寧ではないということを後から知った アイドル相手にどういう文体を使うべきなのか、いまだよくわからない)
・tiktokの画録オタク動画でよく見た、開始直前に出てくる「ただいま接続しています」の表示もなし 本当に突然始まった
・30秒は意外と時間がある
・なので1分だと相当シュミレーションしないと時間配分が難しそう、初めてのヨントンが30秒ミーグリでよかった
・항상 행복해요を言いそびれた
・ボードを準備するときっていつも「本当にこれは相手の目に入るのだろうか」と考えながら書くから、今回のは100%(スタッフにダメ出し食らわない限り)相手に届くボードになるんだって思うと不思議な気持ちだった いつもより丁寧に書いた
・終わって最初に出た感想「いま…何が起こったん…」
・その次に出た感想「向こうはこの30秒がこの後も続くのか、大変…」
・すっっっごくエネルギー消費した
・オンライン面接が終わった時の疲労感
・だからこそシンプルなやり取りにできて安心した
・プロだった 丁寧にお仕事していた
・結果的に要求は何もしなかったけど、最後に両手で指ハートふりふりしてくれてめ〜ちゃくちゃ可愛かった プロすぎる
・ヨントンって時間足りずブチッッッッ!って切れちゃうイメージがあったけど、ちゃんとあんにょん〜で余裕持って終えられたのがすっきりポイント 欲張りすぎは良くないということを学んだ
・ヨントンをやるということがそもそもの欲張りだから
・個人的には個別お見送り会、ハイタッチ会と比べても満足度が高かった
楽しいヨントンレポを見たい人はここで読むのをやめることをおすすめします
私は感情をこねくり回すタイプのおたくなので、今回もwhat's in my bagならぬwhat's in my 思想をやらせてもらいます ありがとうございます
観覧車
国語の教科書に載っていたこの短歌が大好きだった。
同じ時間を過ごしても、「我」と「君」では感じるものがまったく異なること。他者との関係(「我」と「君」だけの関係性であることを思うと、友情よりむしろ恋愛関係を想起させる)における酸っぱさ。苦さ。そんなものが余すことなく込められたこの歌が大好きだった。
大好きでよく聴いていたaikoの曲にも、この「観覧車」的表現がたびたび登場する。
この曲は、「好きな人と真夜中に電話をする嬉しさ」から始まる。しかし、その「好きな人」の隣には、実は可愛らしい女の子がいたということが曲の途中で判明する。
(この「バニラのにおいがするTinyな女の子」という表現が絶妙で、たしかに「何も知らずうれしくてただ鼻をすすっていた」ような「あたし」は、きっとバニラのにおいがするTinyな女の子には勝てない。)
真相が判明してからのこの繰り返しのフレーズが、痛々しくていとおしい。
隣に女の子がいるのに真夜中ほかの女の子と電話をする人間なんて、きっとろくでもない。だからこの「あなた」が「あたしのこと」を「好きだって愛おしいなって」思っている可能性は、限りなく低い。
私が見出す「観覧車的瞬間」は、ここにある。
好きだ、愛おしいと思っている「あたし」と、きっとそんな特別な感情は微塵も思っていない「あなた」。真夜中という同じ時間を過ごしていても、そこに感じる気持ちは180度異なる。
この「違い」が恋愛における切なさと苦しみである、と実感していた。ここで指す「恋愛」とは自分の経験などはほとんど関係がなく、歌詞などフィクションにおける「誰かと誰かの関係性を描くこと」。そこに表現される痛みとして、相手との目に見えない圧倒的な違い、観覧車的瞬間というのは大好きなモチーフだった。
はじめてドギョムを近くで見た日
去年の5月。お見送り会が当たったと思ったら、なんとランダムで指定されるメンバーがドギョムだった。
私の人生は当日の6/1で終わるんじゃないかな、と思った。6/2以降を生きている自分が想像できなかった。
その前にオフラインイベントが全滅したとき、いつかドギョムを公式イベントで拝む、ということは私の夢となった。その夢がびっくりするほど急に叶うこととなった。
夢の、その先が見えなくなった。
色々な想像をしていた。もし近くでドギョムを見る日が来たら、私は嬉しさで泣き崩れるんだろうな……泣きながら何とかメッセージを伝えるんだろうな……もう二度とドギョムとは会えないって悲しさに打ちひしがりながら帰るんだろうな……。
6/1のことを考えれば考えるほど、「ドギョムに会った私」がどうなるのか想像がつかなくなった。劇的な瞬間が、それこそ「君には一日、我には一生」である瞬間に立ち会うのだというそこはかとない自信があった。
現実はそんなわかりやすいものではなかった。
お見送り会はあっという間に終わった。自分がドギョムに会ったのかさえわからなかった。いや、あれを「会った」と言えるのだろうか?
ここで終わるのが悔しくて、必死にこれを書いた。あの一瞬から自分だけの特別さを見つけることが大事なんだと、自分に言い聞かせながら。
このとき、私は「君には一日、我には一生」のスタートラインにも立てなかった。
きみの世界に少しだけ近づいた日
9月。一人で韓国に行った。
1泊2日というショートトリップだったけれど、ドギョムが行ったカフェや、ベテルギウスのロケ地を思い思いに回った。
ずっとドギョムのことを考えていた。
このときの私は「SEVENTEENのドギョム」のことがよくわからなくなっていた。流れる情報に対して、どう受け止めてどんな心持ちでいるべきなのか、スタンスを見失っていた。
知らない土地で、初めて足を踏む国で、ドギョムは私の羅針盤だった。本当はアクセサリーも文房具も洋服も食べ物だって、何を買えばいいのかわからない。でも、ドギョムに関わる何かを感じられたら、色とりどりに並べられた商品のなかから、欲しいものを選べた。次にどこに行けばいいのかわかった。知らない場所にだって一人で行けることがわかった。
あまりにずっとドギョムのことを考えていたものだから、私のお守りとも言えるドギョムが、実際のドギョムとは少し違うところに在るということに薄々気づき始めていた。
ドギョムは神さまみたいなものだ。自分がからっぽだと思うとき、からっぽな私を満たしてくれる。時にはからっぽであることさえも忘れさせてくれる。無色透明にしてくれる。そしてまた時には私を何色にも染め上げてくれる。ドギョムという存在は私にとって信仰の対象で、羅針盤で、世界の見え方を変えてくれる双眼鏡だった。
きっと、この「ドギョム」は「ドギョム本人」とは少し違うところにある。だから、帰りの飛行機で、窓の外に広がる雲を見下ろしながら、私は少しだけ誓った。ちゃんと、「私の中のドギョム」と「ドギョム」を区別しよう。それがけじめだ。私の中のドギョムは私の中で大切に大事にしよう。そして、コンサート会場で会えるドギョムを、適切なファンの距離から応援していこう。ゆっくりと夕陽に染まっていく雲は、それはそれは綺麗だった。
はじめてドギョムに触れた日
気持ち悪いタイトルだが事実なので許してほしい。12月7日、FOLLOW大阪公演のハイタッチ会が当たった。当たった、というより「当てた」と言いたい。
このとき、私はなんとなく察していた。ハイタッチ会といえどまた一瞬にすべては過ぎ去り、自分の思い出には何も残らないんじゃないかと。どんなに追いかけても追いかけても意味はないんじゃないか。アイドルを好きになるって何だろう。「応援」のあるべき姿はなんなんだろう。公式イベントとして少しでもドギョムを近くで見たいだけなのに、そしてそれを自分の人生の「劇的瞬間」として刻み込みたいだけなのに。
もう、6/1のお見送り会の前みたいに毎日をそわそわと過ごせない。だって一瞬で終わってしまう。それを知っている。
ただその一瞬を特別にしたいだけなのに、その「特別」は自分でしか生み出せないのに、特別の生み出し方がわからなくなってしまった、そんな感じ。
「我には一生」と思える瞬間さえあれば、それを胸にこの先も生きていけると思っていた。ばかばかしい。一瞬に収まってしまう人生なんて!
過ぎてしまうと、この日の記憶は全然ない。覚えているのは、始まる前の待機時間に吐きそうになるくらい緊張したのと、「ドギョマ、だいすき!」と頑張って口にしたら「だいすき〜?」と困惑させてしまったことくらい。ジョンハンさんが噂通りのお手ポジションで待機しててめちゃくちゃ可愛かったのはなぜかすごく覚えてる
ハイタはハイタですごく楽しかった。このために出したお金に関しても全然後悔していない。
(というか、私が使いたくて使ったお金なので!)
ハイタッチ会のnoteにも書いたけど、オフイベに対する気持ちを一度冷静に見つめ直す時間が必要だと思った。ただがむしゃらに、会いに行く!じゃなくて、私が会いたいドギョムがそこにいるのか、本当にいま自分はそこにお金を突っ込めるのか、ゆっくり考えてみてもいいんじゃないか。
私がいちばん好きなドギョム。それは、ステージの上で光を浴びながら、いとおしそうに客席の光の海を見つめている姿だ。
その姿はハイタッチ会やお見送り会では見られない。ライブに行って、キラキラと輝くドギョムをこの目で確かめるしかない。CDにかけるお金を減らしてその分を遠征費にする、とか、やり方はいくらでもあった。
ステージ上のドギョムが一番好き、という気持ちだって近くでドギョムを見てみないと気づけなかった。勉強代みたいなものだ。
さ、これで余裕のあるおたくライフを…………と思っていた矢先に
ヨントンの告知
おたくは激怒した。必ず、かの邪智暴虐な運営を除かなければならぬと決意した。おたくには収支がわからぬ。おたくは、おたくである。遠征をし、ライブに行き、グッズを集めて暮して来た。けれども出費に対しては、人一倍に敏感であった。
みんな同じだと思うけど通知を見た瞬間にブチ切れました またHEAVENを買わせるんかい…!!!!
たしかに「オフイベの姿勢見直そう」とは思った。思ったけど、オンラインイベントが来るとは聞いてない。
ヨントン。中華ヨントンに応募できる財力があれば話は別だけど、日本イベントとしてのヨントンはなかなか機会がない。次またいつあるかわからない。どうする……?!
ありがとうございました
サイン会のAは倍率に勝てる気がしなくて、ビビってBに応募したら無事当たりましたーーッッありがとう……日本イベントの「運」と「確率」で勝負していく感じ、嫌いじゃない←ギャンブラーの思考
ここに使う分あれをやめよう、とかは色々考えました 何ごとも取捨選択、何かを得たら何かを捨てないといけない
すべてを手に入れようとするならば、この場合「自分の収入を上げる」しか手がないけど、私はいまの働き方に満足しているし手放すつもりもないし、ならその分何かを我慢しないといけない
だけどドギョムとお話する機会は我慢できなかったよ〜〜〜……
そして冒頭に戻る
ヨントンを終えて
振り返ってみると、今回は「一瞬」に固執しなかったな、と思う。
清々しかった。ドギョムを前にするこの瞬間が全てじゃないと、最初から理解ができた。私の気持ちなんて伝わらなくていい。水が流れるみたいに、「いつも力を与えてくれてありがとう」という言葉がその一瞬だけ相手の前で光ってくれればいいなと思った。残らなくていいしすぐ消え去ってしまっていい。だからありきたりな言葉がよかった。少しでも印象に残る言葉を……!と用意しなくてもよかった。「いつも元気をもらっているよ」、ありきたりだけど、でも嘘じゃなくて本心なんだよ。
ドギョムはプロだった。お仕事としてお話してくれたなあ、という感想はマイナスな意味合いではなく、むしろ良い意味での感じ方だった。お仕事としてちゃんと向き合ってくれたなあ、という感覚。
ドギョムとヨントンをする前も後も、私の毎日は何も変わらない。「劇的な瞬間」は、相変わらずやってこない。
そもそもなぜ「劇的な瞬間」を望んでいたのだろう。それは多分、私が私の生活に満足していなかったからだ。
何か「感動的な瞬間」がやって来たら。ここで全てが変わるんだ、という瞬間を味わえたら。納得のいかない毎日を捨て、理想の生活へ一歩踏み出せるのかもしれない。
そんなものは幻想である。どんな瞬間が訪れても私は私だし、私の中にある「私」も変わらない。
大勢のファンを相手にするアイドルにとって、あの瞬間は「一日」にも満たない。
日々を生きていく私にとって、あの瞬間は「一生」とはならない。
あなたは忘れるだろうけど私は覚えているよ、と痛みを自らに刻みつけることすら何かが違った。どうせ私も忘れるから。固執する必要がなかった(嘘ですヨントン後ずっと擦っています)
去年のツアー後に感じた、「またはじめましての顔で会おうね」が今の感覚として一番近い。
ドギョムに近づける瞬間は、人生における終わりでも始まりでもなかった。例えるなら、繰り返しの毎日に突然現れたボーナスステージ。ゴールではないから、ボーナスステージ後も人生は続いていく。
きっと、「我には一生」と呼べる観覧車的瞬間は、私にはもう必要ない。切ない、という「痛み」を実感しなくても、痛みを刻み込まなくても、ちゃんと生きていける。
一生と呼べる瞬間なんていらない。ドギョムがいてもいなくても、私は今の毎日をただ繰り返していく。でも、この先に続く長い長い道の途中に、「ドギョムに会える日」が存在するということ。それは、ふと息が切れそうになって目の前が真っ暗だと感じたときに、行き先を照らしてくれる街灯みたいなもの。
ドギョムとヨントンをした。ヨントンの日が決まっても、ちゃんとその先の日々が見えた。3/9より先はちゃんと見えて、現に私はまた繰り返しの日々を過ごしている。
次もまた、何度だってはじめましての顔で会おうね。
生きる道を照らしてくれてありがとう、いつもたくさんの기운をくれてありがとう