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私だけの


ハイタッチ会が当たるか気を揉んでいたころ、ただなんとなく、もしもハイタッチ会が当たったら、もう少し自分の手を労われるようになるだろうか、と考えていた。

人差し指で、親指の爪の横のあたりを押す癖がある。左手なら、親指の左側の部分、乾燥で固くなりやすい部分に人差し指の爪を立てて、ぐっと押す。痛さはほとんどない。やればやるほど、皮膚が固くなるのも、美しくない行為であることも、わかっている。わかっているのに、仕事で小難しいメールを読んでいるとき、現実逃避をしたいとき、私は自分の爪を自分の指に立てている。

意味はない。する意味もないし、やめる意味もない。くだらない癖。でも、もしもハイタッチ会が私にあるのなら、この癖をやめる理由になるかもしれない、と思った。


当落の日。サイトを見に行った私の画面には、「当選」の文字が表示されていた。

美しいものは、多くの場合は常日頃のケアというものが積み重なって出来ている。だから、いまさら頑張ったところで自分の手が美しくなるとは思わない。だけど、せっかくハイタッチをするのだから。たとえ一瞬でも、そんな機会があるのだから、と思うと、自然と「ちゃんとしよう」という気持ちを持てた。

美意識、というものが苦手だった。ファッション、美容院やコスメ、ネイル、自分に対するケア。そういうものを、いつもどこかで諦めてしまう。根本的に自分を愛せていない。
かわいいと思う服を買っても、自分が着てみたらかわいいと思えなかったり、自分の家のクローゼットに入った途端、色褪せて見えたり。せっかくカットしてもらっても翌日にはなんだかパッとしなかったり。かわいいと思って買ったリップが、よく考えたら似たような色を持ってたなと大して上手く使えなかったり。もう大人だしネイルにも気を使った方がいいのかな、と思っても、そこにお金をかけるのを躊躇してしまったり。

太宰治の小説に、『トカトントン』というものがある。何かをやってみよう、と熱意を持っても、どこかで不意にトカトントンと音が聞こえると、途端に現実に戻って虚無に襲われてしまう、という男の話だ。私はいつも、自分のために何かしようとするたびトカトントンに襲われる。お金をかけて何か意味があっただろうか、本当に自分は満足したのだろうか、と。そうすると、億劫になって次の一歩が踏み出せなくなる。そうして、自分を大切にできなくなっていく。

だから、ちゃんとハンドクリームを塗る、とかリップクリームを塗る、とかそういう習慣じみたことをきちんとこなすことが苦手で、なんかもうどうでもいいな、と結局おざなりになりがちだった。美容って、根本的に自分を愛せていないと成り立たないのだと思う。自分のために何かをする、ということは、自分そのものに時間とお金をかける価値を感じていないと、結局続かない。



そんな私が、ハイタッチ会に当たった。

思っていた通り、人差し指の爪を親指に立てるたび、はっとして、いや折角ハイタッチ会があるんだから、そういうのはやめよう、と自分を戒めることができた。自然とハンドクリームを塗るようになった。ネイルオイルやクリームを買って、昼休みや寝る前に塗るようにした。
あるとき、うっかりして左手の人差し指を火傷した。そのとき私は咄嗟に、左手でよかった、と思った。なぜか「ハイタッチは右手でするもの」と思っていたから。


あまりにも上手く「習慣」が作れたものだから、ハイタッチ会が終わってもこうしてやっていけるんじゃないかと浮かれていた。現実はそこまで甘くなかった。

はじめて行ったネイルサロンで綺麗にしてもらったネイルを落とした途端、また自分の爪がどうでもよくなった。どうでもいい、というよりは、何も感じなくなった。気づくとまた指に爪を立てた。すぐに皮膚が白く盛り上がり、固くなった皮が剥けた。寝る前の一手間ができなくなった。あんなに気にしてオイルやクリームを塗っていたのに、もうそれができない。できないというより、そこまでやろうと思えない。


そのときはじめて、私はハイタッチ会の真価を実感した。あんなに、一瞬しかないと複雑な気持ちを抱いていたのに、終わってから気づくなんて、本当に愚かだ。大ばかものだ。

大好きな人と、ハイタッチができる。たったそれだけのことで、私はあの1ヶ月を、いつもより自分を労って過ごせた。トカトントンを吹き飛ばして、少しでも自分が堂々とできるように(実際はそんなことできないので、本当にほんの少しの心構えでしかないのだが)何かをやってみようと思えた。成果とかそんなことはどうでもよかった。実際、特別に手が綺麗になったとかそういう実感はない。でも、ふとした瞬間に手を眺めて、気にして、何かしようと思えた。その特別さは、他ならぬドギョムとハイタッチができるんだと思えたから得られたことだった。

この地球上にドギョムを好きな人はいくらでもいて、私よりずっとお金をかけて何かを求める人はたくさんいて、それを感じるたびに、私にとってのドギョムって何なんだろうと不安を覚えた。たとえ何万人という人がドギョムというアイドルを好きでいるとしても、私にとってのドギョムは小さな惑星に咲くたった一輪のバラだと信じたくて、でも時にそれが馬鹿らしくもなったりして、嫌だった。

こんな私でも自分の手を大切にしようと思えたのは、全部ドギョムのおかげだった、と気づいたとき、それこそが「私だけのバラ」だと思った。オフラインイベントは対面したその時間こそが大事で、特別なこと(わかりやすいペンサとか)があるほどに意味が増すように思っていたけど、そうじゃなかった。他の誰にも見えない私の毎日、私の心の持ち方。そういうところにドギョムは入り込んでいて、私にとっての「特別」はそこにあった。この体験もこの感情も、きっと私だけのものだった。


笑っちゃうだろうな。知らないところで、知らない間に、知らない人間にそんな影響を与えているなんて。きっと、あなたは知らないところでたくさんのファンにそういうエネルギーを与えているんだろう。私のようなケースはきっと無類にある。だから知らなくていい。ただ大きな話として、あなたがたくさんの人に影響を与える素晴らしいアーティストなんだよって、伝わればいい。こんな個別の話は、私が私の話としてそっと仕舞っておけばいい話。

コンサートで、SEVENTEENのみんながいつも「次」の話をしてくれるのが嬉しかった。そのために私はまた、あと一歩自分を愛せるかもしれないから。でも、いつまでもそうやってよりかかりたくない。いつの日かちゃんと、「その日」がなくても、自分をどうでもいいと思わずに過ごせる日が来たらいいな、と思う。