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祖母へ -手放し-

どうやら、手放しはみんなにとって

永遠のテーマのようだ。

気づいたら抱えて

自分のも、他人のも

もはやどっちがどっちのかもわからない大きな荷物

しょいこんで


”善悪” とか ”モラル” とか ”責任” とか

”罪悪感” とか ”欲” とか ”コントロール” とか

重い足取りで 

墓場まで運ぶ



ぜっっっったい

そんな人生嫌だ!!!!!

常々そう思っているはずなのに。

この間 熊本のAneetaのテラコヤ森の風に
遊びに行かせてもらって

OSHO禅タロットを引いたら

”CONTROL" が出た。

とっさに降ってきたのは

”結末は、コントロールできません”

というメッセージ。

(OSHO禅タロットのすごいのは
いつも「はい、そうですよね すみませんでした」
というカードがやってくること。)

心当たり 大アリ。
特におばあちゃんの病気のこと

ここ数ヶ月の中心のテーマ。

そこには

「治してあげたい」
「健やかな生活をもう一度送れるようにしてあげたい」
「元気な身体に戻してあげたい」

という潔いほど完璧な ”CONTROL”が

存在していた。

んーまあ
どうしてかって

わたしは治し方を知っているから。


そもそも

病気はランダムにやってくるんではなく病気を得た当人が作り出したもので、
この病気から本人が気づき、学ばなければならないことが
たっくさん詰まっている。
祖母の場合も例外なくそうである。と、わたしたち家族のほうが痛いほど知っていて。

だって、病気がわかるまでの方が、付き合い方という意味でとても大変だった。

病気がわかってから初めてやっと 自分を省みることを覚えた彼女は

かなり、かなり、かなーーーーり、穏やかになった。

これまで
自分の価値観や感情を押し付ける 
正論(社会規範?)を振りかざして相手の在り方を非難する
人の意見に耳を傾けない
とにかく頑固
人の行動、言動をジャッジ、評価、支配し
理想通りでないと相手を責める (もうほぼ精神的暴力…)
溜め込む
爆発するまで我慢する

というような、強烈な人。
そら病気にもなりますわよ・・・

(そうならざるを得なかった人生の背景も知っているし、そこに愛が隠れていたことも今ならわかる。)


わたしの話に逸れるけど
母がシングルマザーだった時から 再婚して新しい父を迎えて兄弟が生まれたり、波乱万丈な地球時間を過ごす中で
唯一ずっとわたしの側にいてくれてたおばあちゃんがそんな人で、
なんだか割とめちゃくちゃだった、カオスなこども時代だった。
満身創痍の状態で大人になった。

まあでもそこは今自分で向き合えるしケアできる。

そうして色々じぶんでみつけて、落ち着いてからも
そんなおばあちゃんのそばにいると何かしら痛い思いをするので、
同じ空間に居れない、口を聞けない期間があったり。
それを被ったのは家族の中でわたしだけじゃなく。
マジでわたしたち家族よくやったよ…



というところで
今回の病気がわかり
身体も気も弱っているから、というのもあるかもしれないけれど
やっと家族の言うことを聞き入れてくれるようになり。

変容を促されている。

でもでも

なかなか体感として気づけていないことの方が多いし
日常のふとしたところに
80年の積み重ねが出る。
なっかなか、難しい。


”あーそこ、捉え方次第では 声を荒げる必要なかったんだよなー”
”あーそこ、 人のせいにしてるけど ちがうんだよなーほんとはー”
”あー、今、もっと素直に自分を開けたら、ちがう表現ができたよなー”

と、わたしの心の中で指摘が入る。

半分はわたしの人生で受けてきたちっちゃいわたしの傷を癒すため。
「あ、この時、本当は嫌だったんだ」「本当は怒りたかったんだ」「傷ついていたんだ」ってたっくさん気づく。


そしてもう半分はこの状況からばあちゃんを救ってあげたくて。

"そういうのをやめれば、病気は良くなるのに…"

ここだ!

”CONTROL”の居場所!



話は最初に戻る。

身体と心にこびりついたでっかいかたまりを取り除くには

捉え方をリニューアルしなければならない。

病気が小さくなったり治ったりするとすれば、はじまりはそこからだ。

でも

どれだけ周りにいる私たちが応援したって、その手術のメスは本人にしか執れない。

自分のストーリーは、今の自分自身にしか作り出せないのだ!


ってことはつまり

この病気の結末も、
彼女オンリーが握っているってことだ。

今、今、今 この瞬間の連続に存在し続ける自分自身オンリー。

だから。

もし

気づけないまま過ぎていっても。

やりきれないままおわってしまったとしても。

学びの途中で取り残されてしまったとしても。

どんなに残念な結果でも。

というか

結末に よい わるい  よかった ざんねんだった

はなくて。

自身の歩んだ形跡がただそこには残る。


どうせ今世で学びが完了する人なんていない。

あ、もしかして… 

と世界の輪郭がみえてきた瞬間

あっけなく生は終わる。

だからまた次の生を受ける。

そうやってわたしたちはこの美しい地球で

いまだに人間という醜い姿で関わり合っている。

人間としての学びがおわるまで。

だから

今世でやりきれなかった学びは

来世にでもやればいい。



自分はこの道をこう進んでいきたい

とか

この人にこうしてあげたい

とか

VISIONのはずがいつのまにやらエゴと執着へと変貌する。

必ず実現するためにどんな手段も…となってはもう手遅れ。


もう何度も何度も同じ学びが来ているけれど

また忘れてるわたし。


唯一できること

今をトータルにやり切ること。= 生ききること。

"今これをやったらどんな結末になるかな"
”この人の結末のために何ができるかな”

という他人と未来への先走りをしない。


この先なにがどうなっても

全て過ぎ去って

おわっていくのだから。




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