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人や風景に出会い、変化していった制作プロセス

子どものころのように夢中に

今井 今回も北海道白老町で彫刻家として活動される国松希根太さんにお話を伺いたいと思います。これまで白老町の話をいろいろ伺ってきたんですけれども、国松さんの作品が生まれるまでにはどういうプロセスを経るのでしょうか。

国松 僕は主に彫刻ですとか、木の板を題材にしてそこに描く平面作品を作っています。プロセスというと、素材があったり、イメージがあると思うんですけど、それを形づくっていって、最後完成する流れなんですけども、昔はちゃんとスケッチをし、模型を作って、それを10倍にしたサイズを実際の作品で作るようなプロセスで作っていた時期があるんです。そのときは素材は金属で作っていました。金属は工業製品ですので、板とか棒とかを買ってきて、それを溶接して作っていくやり方をしていたんですけど、あるときアトリエの近くにおそらく前に(このアトリエを)使っていた家具の人が残した木材を使って作ったときに、スケッチも何も考えずに作ったときに、気づいたらヘンテコな形が出来上がっていた経験がありました。そのときにスケッチしてこういうものを作りたいと自分の意識も構えて作ったものと、夢中になって作ったものが全然違うものができていて、もしかしたらこのヘンテコなものが本当の自分なんじゃないかなみたいに思えたことがありました。それ以来、最初に考えすぎずに、手を動かしていく中で次が見えてくるというような制作プロセスに変わってきたのが、飛生に住んでからの大きな変化としてありました。


村上 その形が落ち着いていく中で、体と素材との感覚が通じたというんですかね。何かそれはどういうところにあるってご自身では思いますか。

国松 木を素材にしてるので木彫っていうことになるんですけど、そういうものも大学で半年ぐらいやったぐらいだったんです。やり方を「ノミはこうやって研いで、こういうふうに使って、こういうやり方なんだよ」とかっていうのをよくわかっていないまま卒業してしまったんです。それで、そのころやっていた、金属に使うグラインダーっていう機械を、思いっきり木に押し当ててみると、摩擦でそこが焦げたりして何か面白い模様が出てきたりとか、そういう自分で試してみたことが面白いなと思うんです。無心というか、小さなころに何かで遊んでいたような感覚に久しぶりになれたみたいな感じだったんですよね。また本当のきっかけになったのが、たまたまベトナム人のアーティストの人が移住してきて制作場がないということで、1週間ぐらい僕が住んでる家に住んで一緒に制作してた時期があったんです。その人は素材もその辺にあるものを拾ってきて、1日に三つとか作品を作っちゃう人でした。自分はそれまでスケッチをして模型を作って、一つの作品に2ヶ月とかかけるような制作スタイルでいたときに、その勢いを目の前で見て、負けてるなと思って。ちょっと悔しいような思いで、その辺に落ちてる木を手に取って作ったので、何かそういったきっかけも大きかったとは思います。


村上 なるほど。もう1回、先ほどの一緒に作っていた方についてですが、1日3個ぐらい作っちゃうっていうのを目の当たりにしたということですが、同じ彫刻家が作品をこのペースで作りあげたんだっていうのと、今日ぐらいまでにはつくあげたいっていうのと、自分の中からっていうよりある種の外からの時間の節目というのは、やっぱり制作することにとっては大きなファクターになるんでしょうか。

国松 そうですね、なんか完成して、また次の作品に進んでいくっていうのがあります。もちろん展覧会が先にあり、締め切りみたいなのがある中で作ることもあるんですけど、全くそういうのがなく時間を自由に使えて制作に向かえるのは理想ではあるんですけど、やっぱり完成を自分が早く見たいっていう気持ちもあるので、やっぱりある程度の時間配分みたいなのは意識して作っています。

今井 白老という町に移り住んでから作品作りに対する変化もあったっていうことですが、この土地と作品作りの関係がもう少しちょっと伺えたらなと思います。
作品作りに入る前の時間は、国松さんはどのようにして過ごされてるんでしょうか?

国松 制作に入るのが何時から開始と決まっているわけではなく、今日は制作しようっていう気持ちがあったとしても、何かすぐに入れないことがやっぱり多くて、そういうときはただアトリエを歩き回ったりとか音楽をかけたりとか、掃除をしたりとかします。制作に入っていくのが怖いではないんですけど、「さあ、やるぞ」みたいなきっかけがいつ来るかわからないんですけど、儀式のように歩いたりとかしていないと、そういうタイミングってこないので、掃除したりしているうちにぱっと、やろうっていう瞬間が来て始まることが多いんです。そのためにはアトリエの中だけじゃなくて、外を歩いてみようとか車でどこかに行ってみようとかします。そういうことも含めて自分の気持ちを持っていくのが、やり方が決まってるようで決まってないみたいなところがあって、それは毎日訪れることとしてあるかなっていうのがあります。


時間の区切り


村上 1回目のときからちょこちょこっと出てくるんですけど、「散歩をして」とか「土地を歩いて」っていうお話も何回か出てますが、片付けたりというのとはちょっと何か違う行為かなと思うんですけど、それは例えば札幌で作られることもあると思うんですけど、札幌での散歩と飛生の散歩は、ちょっと別物になりますよね、服装から何からしても。

国松 そうですね、散歩は札幌っていうよりは白老を歩くことが多いんですけど、アトリエの近くを歩いてて見える景色だったり、そういうのも時間帯とか季節によって見え方が違ったり、あとは少し足を伸ばして自分の好きな海岸に行ってみたり、それも必ずしも行ったからといってそこでインスピレーションが毎回あって、それを持ち帰って作品ができるっていうものでもないんですけど、でも歩いたり見たりっていう経験の中で感じてる、視覚だけじゃない、そのときの温度だったり、湿度だったりとか、そういうものが作品を作ってるときに、にじみ出てくるようなものなのかなと思っていて。
あるときは洞窟のようなものに出会って、それを題材にした作品にしようとか、はっきりドーンと来る景色もあるんですけども、そうじゃなくて足で歩いた感触だったり雪山のそのときの雪の凍っている感じだったりとかって、やっぱり肌で感じないとわからないような部分があって、そこから例えば今は雪山なんだけど、ちょっと実際に歩いたことはない氷山だったらどうなのかなとか、まだ行ったことない景色まで想像してみたり、それを作品に取り入れてみたりっていうのが最近の作品の中では現れているかなと思ってます。


村上 面白いなと思ったのが、まだ見たことのないところを思いながら作品を作るっていうことでした。一方で散歩の中でも雪を感じたり湿気を感じたりとか、それこそ散歩だけじゃなく掃除というところも含めて、ゴミを塵一つ掃いていくのは、僕からすると国松さん自身が彫刻刀みたいなもので、それをちょっとずつ研いでいくような状態なのかななんて想像しました。一方で掃除と散歩に、もし仮に共通するものがあるとしたら、始めたら終わりがあることじゃないですか。散歩も行ったら戻りがある。掃除も一応全部掃いたという終わりがある。そういう中に身を預けながら、ちょっとずつ自分を研いでるのかななんていうようなふうに思いながら伺っていたんですけど、その感覚って違和感ありますか?

国松 いや、少しわかりますね。まあ研ぐのもきっと、「ここまで」といって研ぐのもありますし、掃除なんかも別にすごくきれい好きなわけでもないんですけど、「自分なりに整うまで」っていうのがあって、その「整う」みたいなのが、掃除し終わったら、やっぱり足音もちょっと違って聞こえたりとか、何かそういうようなゴールというか、ここまでやったみたいなのがあって、そこは何か作品を作ってるときも、そういう「終わり」っていうのがある中で作っているのかなって思います。

今井 これまで3回にわたって作品作りの裏側についてお話を伺ってきたわけですけれども、4回目、最後になりますがぜひ、国松さんの作品自体についてもお話を伺いたいと思います。次回もよろしくお願いします。
(文 ネイティブ編集長・今井尚、写真提供 国松希根太、リョウイチ・カワジリ)

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次回のお知らせ

北海道白老町の飛生(とびう)という地区にある使われなくなった小学校をアトリエとして彫刻をつくり続ける国松希根太さんとの最終回です。作品を作り続け、町に根付き、結果として共同アトリエという場をつなぎ続いできた国松さんの考える「ネイティブになること」とは。

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