愛と意地悪は紙一重

わたしには恩師と勝手に認識している人が2人いる。

1人目は小学校3、4年の担任の先生。恐らく40代後半のチャキチャキとしたベテランの女性教師で、放課後はいつも生徒たちがデスクの周りに集まっていた。先生はおおむね優しかったが、偶にちょっと意地悪を言うひとだった。

ある日、先生に手伝いを頼まれた私は「え〜面倒…」とこぼしてしまった。(今思えば本当に失礼な子…)

「あなたは頑張り屋さんなのだから、その一言が無ければもっといいわね。」とちょっとイタズラそうな顔をして先生は笑った。

顔から火が出るというのが正にピッタリなくらい。手伝いたくないわけではない。少し恩着せがましく振る舞って感謝されたかったのかもしれない。いつも手伝っているのだからという自負も粉々になり、その時どう答えたのかも覚えていない。ただ恥ずかしくて、言われたくないことを指摘されて、身の置き所がなかった。

先生とは卒業後も年賀状を何度かやりとりし、退職されたのを機に引っ越されて音信不通になってしまった。でも先生の一言は大学で、バイト先で、仕事場で、家庭で、時々ふっと舞い戻ってくる。出そうになる一言をぐっと飲み込んで「いいよ」という時に私は先生のイタズラそうな笑顔を思い出す。


2人目の先生は中学で渡米してしばらく、英語がほとんど話せなかった時にボランティアで英語を教えてくれたアドリアナ先生。第二次世界大戦を生き抜いて難民としてアメリカに移住したおばあちゃんだった。

アドリアナ先生は現役時代は歴史の先生だったこともあり初対面からただ厳しくて、授業中もほとんど笑わず、話せないと言ってるのに単語で答えるのは禁止、文法を間違うと何度もやり直し、暗記もできるまで何度も読まされ、自分はドイツ訛りが強いのに私の発音は細かくチェック、口癖はNo no!だった。

書いてくれる文字は癖の強い筆記体で全く読めず、メモはメモの役割を果たすことがほぼ無かった。通い始めて1年、学校のテスト前には山の上の家まで連れて行かれて勉強漬け…果たして本当に帰してもらえるのか…勉強しながら泣いたこともあった。ちなみにお宅でいただく飲み物はいつもオレンジジュースだった。

でも2年もスパルタを受ける頃には英語はメキメキ上達し、文法のテストは現地人より良い点数を取れるようになった。先生は最初からしわくちゃだったけど更にシワシワになり、体調も思わしくないことがあり、そこでおしまいになった。

アドリアナ先生との勉強は正直辛い思い出の方が多い。何でこのおばあちゃんに毎週2回も会った上にガミガミ2時間も叱られるのか、、、最初は全然好きになれなかった。

でも先生は自分も移民として英語を学び、不利な状況のなか教職を得て、強く生き抜いてきた人だからこそ、わたしにも厳しかったのだと今なら分かる。発音も文法も知識も、ネイティブと比べて劣らないように、私が苦労しないように、無償とは思えないほどの熱意と時間を割いてくれていた。

先生が私をMy dearと呼んだこと、たまに頬を優しく撫ぜてくれたこと、そして「私のことはMrs.ミセス(既婚)ともMiss.ミス(未婚)とも呼んではいけない。女性だからといって結婚の有無で呼び方を変えてはいけないのよ」とMs.の呼び方を教えてくれたカッコイイ先生だということを憶えていて、いつか子どもたちにも教えてあげたい。

#忘れられない先生

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