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宝塚歌劇団 雪組公演 ONCE UPON A TIME IN AMERICA 感想

2020年1月1日より公演されている宝塚歌劇団 雪組公演 ONCE UPON A TIME IN AMERICAを観劇した感想を書かずにはいられなかっためnoteに駄文を描いてみます。

ネタバレを含みますのでご注意ください。

このお話はニューヨーク、マンハッタンのLower East Side在住の貧乏なユダヤ系移民のギャングの半生を描いたものでストーリーの展開としては人の半生を振り返る+消えたロッカーの現金と名前を変えたはずの主人公に謎の連絡があるというミステリー要素が含まれるようなお話でした。以下役名で全て書きますので配役は公式サイトをご確認ください。

ヌードルス(David)とその仲間のマックス、コックアイ、パッツィー、幼少で亡くなったドミニク、それにヌードルスの幼馴染みでダイナーをの主人ファット・モーとその妹でブロードウェイ女優からハリウッド女優になったデボラ、のちにマックスと裏で組むジミー、マックスの経営する違法酒場(スピークイージー)の歌姫キャロルなど一時密に人生を共に歩んだ人たちが、時が経ちそれぞれの別の人生を歩んでいる様をよく描いてました。

デボラはブロードウェイの舞台に立つことを夢見てその夢を実現させた少女で、一方、ヌードルスは過ちで人を殺してしまい出所後もギャング仲間とつるんでいて、マックスはアメリカに不満を抱えていて最後まで上昇思考があっても方法が間違っていて…。

時代背景を考えてみると以下のような感じでしょうか。

1914年ー1918年:第一次世界大戦

1920年ー1930年:禁酒法

1922年:ソビエト連邦宣言

1922年:少年期

1929年:世界恐慌

1930年:ヌードルス出所

1933年:ニューディール政策、FRB襲撃

1939年ー1945年:第二次世界大戦

1955年ー1975年:ベトナム戦争

1958年:壮年期

主要な登場人物が幼少期の夢を語ったりする部分から壮年期まで子役を設けずに同じ人物を演じておりその演じ分けがあくまで自然でした。声色、歌い方も子供時代と壮年期では異なるという。ヌードルスとデボラは背筋がゾクっとするほどの声量とハーモニーを会場いっぱいに響かせていて鳥肌がたちました。

彼らはアメリカに対する不満を歌っていましたが、世界恐慌時代には飢えている人も多かったでしょうし、デボラのいたバレエ教室の他の少女たちが怖がっていたようにロシアや東ヨーロッパにいたら二つの大戦、ホロコーストと共産主義に巻き込まれていたはずで貧乏でもなんでも彼らの親の世代でアメリカに移民してきていて正解かと思います。もしかしたら彼らの親の世代は移民一世でまだ英語がうまく出来なかったのかもしれず苦労したのかもしれませんね。ヌードルスは切れ者という意味とのことで、マックスもジミーのサポートがあったとはいえ独学で商務長官まで登り詰めたということは他の政治家のみならず海外との交渉もしなければならなく尋常な努力と頭脳ではなかったはずです。せめてスピークイージーくらいで終わりにしておけば、裏の世界でなくても成功できたのではと思ったりもします。まあ、それでは話が終了してしまうのですがね。

デボラは子供の頃から目標をしっかり持ちそれにそぐわないものは愛しているはずのヌードルスですら絶対拒否しました。ロングアイランドのシーンは背景もとにかく綺麗で歌も圧巻です。舞台としては大好きな場面です。(余談ですがこのタイトル画像もロングアイランドで著者が撮影したものですがサンセットが本当に綺麗なのです。)ヌードルスは約束を取り付けた後嬉しそうでこれで絶対デボラをものにすると思い、王冠を用意し赤い薔薇を敷き詰めるなど気合いを入れましたね。でも女優として更に上を目指すデボラはヌードルスと一緒になるわけにはいかず。この時の歌の気迫が凄かった。少し気になったのがその後、デボラはどうやって帰ったのでしょうか。来た時のリムジンに乗せてもらえたのかな。それとも別の部屋に泊まったのでしょうか。それも気まずいですね。サムが後輩の女優と結婚した時はデボラは淋しかったでしょうね。銀橋で本当に涙がぽろりと溢れたのが見えました。または幼馴染で音楽家の好青年ニックと公私ともにパートナーとなるということもなかったようですね。ニックはその後どうしていたのでしょうか。

最後にヌードルスが「一人は光の当たる場所にたどり着き、一人はたどり着けなかった」というようなこと静かに言ったのが印象に残りました。光の当たる場所にたどり着けたのが本当にマックスだったのか、残りの半生を小市民として生きていたヌードルスではという気もします。ヌードルスはあの事件以降は自動車整備工として一般市民として生きていて、アメリカでは自動車は必須ということを考えると自動車整備も必須な仕事でありそれはそれで良い選択肢かと思います。世界恐慌当時失業者も大変多かったはずなので、ヌードルスはあれからニューディール政策の労働者として雇われてどうにかできたのでしょうか。どうやって偽名を手に入れたのかはわかりませんが、国外にでず、第二次世界大戦やベトナム戦争にも巻き込まれることなくひっそり生きてきたのでしょう。

一方、政治家になったマックスの方がもっと心労が大きいでしょう。長年汚職、投資、政治を続けてきて、身元がばれたら政治家としてもおしまいですし最後は自殺を強要されるわけです。ヌードルスにとっては25年前に全ては終わっていて別の普通の人生を歩んでおり、マックスとジミーはまだあの時からまだ上を求める続きの人生を歩んでいた。ジミーは表向きは穏やかなのですが、怖い人ですね。実在の人物をモデルにしているのでしたっけ?頭も切れて最後まで冷徹な人物でした。

ところでマックスとキャロルが気になって仕方がありません。マックス、本来女性のタカラジェンヌさんなのですが、女性であんなに男物のスーツが似合うってどういうことなのかなと思います。皆で事務所で話をしているシーンがありますが、ただ机に腰かけたりしているだけなのに脚が長くてかっこよすぎかという雑念が生じてしまい若干話を聞きそびれてしまった感があります。そして頭も良くお金を稼ぐ能力もありハバナ祭りではダンスも上手く一緒にいて楽しい相手なのでしょうね。いくら悪い男でもキャロルが離れられないのもわかる気がします。

キャロルは超絶美人で潜り酒場で働いていてギャングのマックスの愛人ではあるけれど根は純粋で殴られてもマックスのことを愛していて…観ていて切なくなります。キャロルの少女時代は語られていませんが身寄りがなかったようなので、経済的な理由でスピークイージーで働き始めてマックスに出会ったのでしょうか。それともどこかでマックスとキャロルが出会ってからマックスの経営する店でキャロルを雇うことにしたのかしら。ペギーが「指名や外出はペギー姐さんが承るわよ」というようなことを言ってたけれど、キャロルはマックスのものなので他の子と違って指名や外出は受けないってことでしょうか。妄想が膨らんでしまいます。マックスは普段はキャロルに対してそっけないのに犬をぶった自分が怖いと家でキャロルに泣くなんて。その辺も萌えました。それでもマックスはDV男で共依存の関係のキャロルとは結婚したとしてもうまく行かない気がします。記憶を失ったのは爆破でマックスを失った後、敵対するギャングから怖い思いをさせられたからなのではとも心配してしまいます。実際、ファット・モーも拷問されていましたし。晩年は少女時代のことしか覚えておらず、少女のまま純粋に年を取ってしまった様子でした。ただ、救いだったのはマックスが恐らくどうにかしてキャロルを見つけ出しベイリー財団でキャロルを終身ケアの対象としていたことです。他にもキャロルのハバナの服が可愛かったとか細かいことは色々あるのですが長くなりもう1ページ別に設ける必要がありそうですのでここでは割愛します。

ショーではプロローグの男役群舞は格好良すぎてオペラグラスを持つ手が震えてしまい照準を合わせるのが大変でした。一瞬で終わってしまったように感じます。またフィナーレの男役群舞はネクタイを首に直に巻いている服装がセクシーで素敵でした。これも一瞬に感じて記憶が持ちません。何度か見る必要があります。またロケットの音楽がディズニーのショーのようなドラマチックさで好きです。デュエットダンスはアイスダンスのような滑らかさで見ていてうっとりしました。

私はこの作品を観た後しばらく(数日間)呆然としてしまいました。第一幕、第二幕の最後のシーンでは会場が水を打ったように静まり返り観客2500人あまりの全集中力が舞台上の二人に集中し、あのような感覚はなかなか味わえないと思いました。それほど演者の気迫、歌が凄いです。舞台美術や服装、音楽も時代や地域を反映していて素晴らしいです。ストーリー展開を例えるならフォレスト・ガンプやニュー・シネマ・パラダイスというように人の半生を描いていて観客も人生を見つめてしまうような作品でした。本当にこれは宝塚歌劇ファン以外の方も一度は観た方が良い作品だと思います。








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