映画感想:『ゴジラ キング・オブ・ザ・モンスターズ』はゴジラ教狂信者が作り上げた狂気の神話である(ネタバレあり)part2


前回までのあらすじ。

この映画の悪役であるエマ博士、最高にして最悪の狂人だったよ!
そしてちっとも全部書ききれなかったので続きものnoteにしたよ。
ということで書き始めてみよう。この映画のいいところをまず先にピックアップすべきだったと反省している。今回も前回に続きネタバレだらけだ。まだ見ていない人は全てを投げ捨てて劇場に入りやがるべきでしょう。
ずばり、

・大乱闘怪獣ブラザーズ、怪獣同士の戦いの描写が最高にクオリティが高い。
・みんな狂ってやがる! まともなのは僕だけか! しかし合理的な狂い方してる
・怪獣にキャラクターをつけることの難しさとそれを実現する愛。ゴマスリクソバードとかよくやりやがった!
・音楽。原作通りの、オリジナル通りの音楽を完璧に用いて、しかも般若心経や和コーラスをふんだんに使って昇華している。ゴ、ジ、ラ!!
・シン・ゴジラもゴジラの厄災としての荒ぶる神を表現しつくしていたが、今作のゴジラKOMではアメリカ人らしくキリスト教に基づいた、それでいて愛あるゴジラの神性を表現していた。

あーうん。箇条書きしてわかった。
こんだけ書くことが多ければまとめきれるわけがないだろう!1トピックだけでnoteのワンパートごとを占領してしまえるわ。
であるから、他の感想とかも見ていて非常に感心したトピックから紹介しよう。一番最後の項目だ。

・ゴジラKOMは、ゴジラの新たな神の側面を表現した神話である。

物語の中盤から後半に差し掛かる部分、起承転結で言えば……転に当たる部分だろう。
メキシコ火山から飛び出したゴマスリクソバード(強)ことラドンとギドラをぶつけ合いっ子したり、それにゴジラが絡んでギドラの左の首を噛み切り落とすとか大奮闘をしていたところに「両方の怪物を倒すためのオキシジェン・デストロイヤー」のミサイルが打ち込まれる。しかし外宇宙からの侵略者であるギドラには効かず、ゴジラが壊滅的なダメージを受けてしまう。
ギドラが外宇宙からの侵略者と判明した以上、相手をできるのはゴジラだけだ。マークや芹沢博士たちは目覚めたモスラと共鳴するゴジラを探し復活を目論見る。海底洞窟の超巨大古代遺跡や、ゴジラが神として崇め奉られていたとか超衝撃の事実が判明していく中、ついにゴジラが眠る祭壇のような空間を発見する。ゴジラはオキシジェン・デストロイヤーで傷ついた身体を癒やすために放射能の非常に強い祭壇で眠りについていたのだ。

さて、ゴジラを復活させるにはどうするか。目覚めるのを待っていれば何年かかるかもわからない。今すぐ起きてもらわなければ。
そこで選択された作戦が「核爆弾をゴジラの直近で爆発させてエネルギーをチャージさせる」という最高に狂った作戦だ。もう一度いう、最高に狂っている。目覚まし時計にも程度があろう。
脱線しそうなので話を戻そう。ゴジラの寝所も発見し核爆弾も用意できた。しかし潜水艦の故障により魚雷の射出ができず、手動で起爆させなければならない。もちろんゴジラの寝所は人間が踏み込めば強力放射能により絶対に助からない。さながら生贄のように向かわなければならない。

その役目を担ったのが、渡辺謙演じる芹沢猪四郎博士。

歴代作品の第一作「ゴジラ」において、芹沢大助博士はオキシジェン・デストロイヤーという恐ろしい兵器を発明させて、ゴジラと相打ちするようにそれを起動させてゴジラを滅ぼして死に果てた。科学が社会にもたらす脅威を恐れ、自身の発明の全てを焼却し、その使用の償いとして命を捧げたのである。
もちろん芹沢大助と芹沢猪四郎と直接の血の繋がりがあるわけではない。しかし本作では、彼の運命をたどるように、同じ「芹沢」の博士が奇しくも「ゴジラを殺すためでなく、復活させるため」にその生命を捧げにいくのである。

この運命性の描写にも心に熱いものを抱かせたが、本題はこの後だ。
ゴジラの眠る祭壇へと帰らずの旅を始める芹沢博士が、長い階段を核爆弾を抱えながら登っていくのである。溶岩が吹き、放射能に満たされた地獄のような光景の中で、彼は核爆弾という人間の原罪を抱えながらゴジラという神へ謁見しにいく。

この描写が、まさにゴルゴダの丘を十字架を抱えて登っていくキリストの姿である。

発想がまさにゴジラ狂信者でなければできない神がかった演出だ。
上記のオキシジェン・デストロイヤーが爆発しても無事だったギドラが、メキシコの火山の上で嵐の暗雲を背に勝利の雄叫びを上げるシーンがある。そこのカットでもまさに「ギドラが神である」かのように教会の十字架が映し出される場面がある。
つまりゴジラKOMとは、人智を超越した怪獣が神として君臨する様を表現している作品だ。
シン・ゴジラにおいても「ゴジラは厄災としての荒ぶる神である」ことを忠実に丁寧にリアリティズム満載に表現しつくしていた。
しかしゴジラKOMはそちらとも違い、アメリカつまりキリスト教圏内における神の偶像を照らし合わせているのだ。発想からしてぶっ飛んでいる。そしてそれが成功しているのだ。
日本人は地震や雷、火災や嵐など自然災害に対する畏怖から、それに神性を抱く。自然とは人智の及ばぬ領域であり、ゴジラとはそのような厄災の体現であると。
一方でアメリカ人もといキリスト教圏内においては、神は乗り越えられぬ試練を与えないし、しかしそれでも神は人を遥かに超越した存在である。ゴジラとは地球の守護者でありその体現だと。
この、独自の宗教観の違いをそれぞれシン・ゴジラとゴジラKOMが自身の作品に落とし込み、両者ともが「神を表現した作品」でありながら「別々のオリジナリティのある神」を描ききったのだ。「ゴジラ」という同じ怪獣を使って。

これをどうして神作と呼べないか。いいや呼ぶね。狂信者の作った宗教画だよ!

さて話を戻そう。
人の原罪を背負ってキリストの如く丘を登る芹沢博士はついにゴジラのすぐ側まで辿り着く。放射能まみれの空間で人体は致命的なダメージを受けつつも、芹沢博士は核爆弾のタイマーをセット完了する。爆発までもうすぐだ。
人が足を踏み入れられない神の領域へ踏み入れた者は、そこでゴジラという神に出会うのだ。もうやることは一つしかない。メットを脱いで手袋も外し、人間が誰一人として叶わない「ゴジラに直接触れる」という神への接触を果たすのだ。
ゴジラはそんな芹沢博士をただ見つめるだけである。

そして爆発の瞬間、芹沢博士は「さらば、友よ」と言い残して核の爆発に巻き込まれる。
芹沢博士の殉教によって復活したゴジラという神は、ギドラという僭王にして偽の神を滅ぼすために動き出すのである……

この、なんだこの発想は!!!!!!!
芹沢博士が完全にキリストじゃん!! 核という科学の脅威、人間の原罪を背負って神に謁見し、そして神を復活させるためのその生命を差し出して天に召される。
一体何をどう考えたらゴジラに対してここまでの神としての思いと愛を注ぎ込めるんだこの映画を作った奴ら! もといドハティ監督!
そりゃ「監督にとってのゴジラは何か」に対する問いで「God.」を出すわな……という。これをゴジラ狂信者と言う以外の言葉は存在しない。

芹沢博士の持つ形見の時計が8時15分(広島原爆投下の時間)で止まっていたり、芹沢博士からマークへ引き継がれた研究ノートだったりといろいろ語り尽くしたいことが山積みだが一旦トピックとしてはここまで。

だからこそ、ゴジラKOMはゴジラ狂信者が作り出した神への畏怖と敬意の宗教画なのだ。

次回はゴジラ以外の怪獣とその大乱闘怪獣ブラザーズの魅力について語りたいと思う。音楽も絡めたいな。


私は金の力で動く。