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勉強をしなさいという大人の意に気づき始める専門学生

その専門学生とは私の妹である。
彼女曰く、
行きたい会社があっても大卒のみ募集の場合がある。わたしたち(専門学生)の方が知識も経験もあるのに。

間違いない。即戦力になるのは二年間の実習を積んだ専門学生である。しかし、同じ業種を募集しているにもかかわらず経験の多いはずの専門学生を省き大卒を求めている企業が多くある。なぜだろうか。

私はその時はこう答えた。
専門学生は現場のことしか経験していないため、そういう風に考えるかもしれない。けど、会社は現場以外にも経営したり管理したり、さまざまな仕事がある。だから、現場重視で人材を求めているわけではなく、現場を踏まえて管理・経営をいずれ任せられる人材がほしいのでは。そうなると大卒という未経験ながら将来に期待ができる人材を優先するのかもね。親に言われた通り勉強頑張って大学入ればよかったのにね(嫌なやつ)。

しかし、私は話しながらも別の問いが浮かんでいた。
それは、大卒は専門卒よりも管理・経営の上層の面で優秀であるという思考についてである。
学歴、大学によって優秀さがどれだけ違うかに関する明確な根拠を会社の人事は持ってないと思う。(高卒、専門卒、大卒の違い。大卒の中でも旧帝大、早慶、MARCH、関関同立、にっとうなんちゃら、大東亜なんちゃら。)つまり、曖昧にその思考をしていると思う。私も含め。
学歴社会を批判する気は毛頭ない。”確率的に”会社に貢献する人材が多いという点で学歴フィルターをかけるのは経営的に間違っていないと思う。経験則やなんとなくだとしても。


私が言いたいことは資本主義の中心である株式会社の持つ曖昧な思考は教育者の思考をも曖昧にさせるということである。
どういうことか。
子供の頃、わたしたちはなぜ勉強するのか一度は考える。そして、親や教師に尋ね、だいたい当時納得できるようなたいした答えが返ってこない。というか義務教育の勉強の意義を明確に持ち、それを子供に納得させられる人は経験上多くない。それの原因が株式会社の曖昧な学歴至上主義からきているのでは?と考える。
教育の先に何があるか。労働ではないだろうか。国としての流れはそれだと思う。人としての成長だとか、北欧でやってそうな教育方針は置いておこう。将来の労働のためだと言っても伝わらない。子供は短絡的だ。将来のことを考えて投資できるような大人と比べて。今が一番。将来のことよりゲームの達成感を選び、今面倒なことはしたくない。長期的な視点を持とうということは伝わらない。だから、教育はひたすらに短絡的アプローチをするべきであるし、今思うと教師はそのアプローチを頑張って行っていたように思える。

(以降の文章は構造上読みにくいのでメモとして読んでほしい。自分の構造的な思考力のなさが悲しい。)

いや、しかし、子供たちは「勉強が将来の何の役に立つの?」ともいう。これは、長期的な視点から勉強の意義を唱える反論である。例えば、古文は確かに使わない。私の就職先でも役に立たないだろう。勉強の本質がどこにあるかわからなくなってくるよね。まずは、古文を学ぶことが目的であるはず。しかし、学歴社会というものは古文を学んで得た得点でより良い大学に入ることを目的とする。これが学歴社会の弊害か。そこを適当に飲み込んで古文を使って”より良い大学”に入ろうとする人間が若いながらの世渡り上手のかもしれない。ではより良い大学とは何だろうか。一般的に偏差値の高い大学である。偏差値の高い大学に入ると、高学歴として”より良い会社”に入ることができる。ではより良い会社とは何だろうか。←ここが原点である。ここが曖昧だから全部曖昧なのだ。(もう一段階、より良い人生について考える必要があるかもしれない)人それぞれであるという結論は曖昧さを生む。給与の高さを良いとして考えていることにいちいち異を唱えるとどうしても曖昧さは高くなる。例えば、給与の高さ史上人間ならば、楽だ。平均給与が高い業界は大学の中でも高偏差値の大学の人材を取る傾向にある。ならば、高偏差値=良い大学である。必死に勉強すべきである。良い会社の曖昧さが元凶なのか?

勉強しなさい。曖昧な指示である。大体の人に訪れるであろう就職のタイミングでやっと痛感する、大人から言われてきた「勉強しなさい」の意味を。大人に言われて勉強しなかった妹。彼女は今大人がなぜ勉強して良い大学に入るべきだと言っていたのかやっと理解してきたはずだ。教育者の曖昧な指示の原点が会社の曖昧さであることも。



あー結局自分の物差しを持ったやつが勝ちなんだろうなあ。教授もそう言ってたわ。良さ、幸せの確立を今すぐすべきか。
そうか、他人に何が幸せか決められてしまう教えられてしまう子供時代はしょうがないのかもしれない。そうやって人は生きてきたんだ。繋いできたんだ。そっちの方が生きやすいから。じゃあそれに従って生きるべきなんじゃないか多くの人間は。いや誰しも一度は勉強を頑張ろうとしたタイミングがあって各人の能力ごとに脱落していったのか?勉強するやつは勉強できるやつって決まってる。できるやつはできない奴の気持ちなんてわかんないもんな。できなくてもしょうがない!それが能力だ!そうなのか?他に理由があるんじゃないか?あー難しい!

相対主義な性格は文章を書く時に補足が多い。


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