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eスポーツチームが最強のコンテンツメーカーになれる理由、なるべき理由

eスポーツチームのビジネスモデルは極めて現代的だ。まず無料でコンテンツを提供してファンを作り、そのファンを起点にさまざまなマネタイズを行なう。

この枠組みはフリーミアムと呼ばれ、いまや珍しくも何ともないビジネスモデルになった。「基本無料のゲーム」を見てみれば一目瞭然だろう。それでもeスポーツチームが際立つのは、提供するコンテンツが自分たち自身であり、突き詰めれば「楽しませた体験」に対価をもらうからだ。

ストリーマーやアイドルが教えてくれるように、そこには多くの可能性が秘められている。自分たち自身がコンテンツだということは、実質的に無限にコンテンツを生み出せることを意味する。

コンテンツは現代のビジネスにおいて最強の武器だ。どの企業もコンテンツを欲していて、僕たちも飽きることなくコンテンツを欲している。だから、もしeスポーツチームが最強のプレイスキルを手にしたいと考えるなら、最強のコンテンツメーカーになるべきだ。そしてeスポーツチームは、最強のコンテンツメーカーになれる。この記事ではその理由について議論していきたい。

記事の前半では、なぜeスポーツチームがコンテンツを作らなければならないのかを需要の面から説明する。そして後半では、どのような考え方でコンテンツを作ればいいのかを退屈の捉え方から検討する。

その流れの中で、eスポーツチームが最強のコンテンツメーカーになれる理由が見えてくるだろう。ただし、具体的にどんなコンテンツを作ればいいのかにはあまり言及しない。

eスポーツチームに向けた内容に思われるかもしれないが、eスポーツの活用や事業展開に関心がある企業の方にもぜひ読んでもらいたい。そういった企業こそeスポーツチームのコンテンツとよき付き合いができるからだし、すべきだからだ。

※便宜上「チーム」と表記しているが、これには(特に明記しない限り)個人で活動しているプレイヤーも含む。

市場も需要もない、だから作ろう

改めて言うまでもなく、特に日本においてeスポーツ市場は黎明期である。つい先日に2019年の市場規模が発表されたが、たったの60億円強だという。盛り上げようとする気運はあるが、まだまだ市場はないに等しい。これは言いかえれば、eスポーツに対する需要を作れていないということになる。

伝統的には、需要は人が生きる中でおのずと生じるものだと考えられている。お腹が空けば食品の需要が生じるように。しかし、現代では存在しなかった需要が作られることはよくある。数々のゲーム作品がそうだ。これは、退屈しのぎのゲームは求められていても、まだ存在しない何か特定の作品が求められているわけではないことから明らかだろう。

例えば、『SEKIRO』が誕生する前に『SEKIRO』自体が求められることは絶対にありえない。しかし、『SEKIRO』が登場した瞬間、『SEKIRO』やその関連アイテムを求める声が生まれた。『SEKIRO』が新たに需要を作ったのだ。

注記しておくが、この需要は「退屈しのぎにゲーム(何でもいい)をプレイしたいという気持ち」のことではない。「『SEKIRO』を好きになったから『SEKIRO』をプレイしたいという気持ち」のことだ。のちの議論においてこの区別は重要になる。なお、ゲーム自体はすでに日常的なものとして一般化しており、お腹が空いたときの食品のように、退屈を感じたときに自然に生じる需要だと僕は考えている。

さて、eスポーツ自体に対する需要は『SEKIRO』と同じだ。ゲームや食品と違って人が生きている中で自然に生まれ出てくるものではない。eスポーツの需要はそもそも存在しない。だから、誰かが意図的に需要を作らなければならない。その筆頭となるのがeスポーツチームだ。ほかにはゲーム会社やオーガナイザーなどもそうだが、ここではeスポーツチームに限ろう。

いま、eスポーツチーム(のほとんど)は自分たちに対する需要を作れておらず、先に見たようにたいした市場もない。それゆえに、VTuberが成し遂げているように、自分たちで自分たちの需要を作って市場を作る必要がある

プロスポーツの多くもかつてはそうだった。人類の歴史の大半において、球を投げて棒で打ち返すこと、またその様子を見ることに需要などなかった。いったいそこにどんな価値があるというのか? しかし、これはいま野球と呼ばれ、多くのさまざまな需要を生み出している。

球を投げて棒で打ち返すことに「体を動かすことの心地よさ」や「身体の限界への挑戦」といった価値を、その様子を見ることに「限界に挑戦する人を応援することで得られる一体感」や「地域性や人物像などを通して自分事として熱狂する楽しさ」といった価値を付与し、それを求める気持ち=需要を作ってきた人たちがいたのだ。

その礎があるからこそ、僕たちは160km/hでボールを放つ人物を称え、そのボールをバットで160mも向こうに打ち返す人物を偉大だと感じるようになった。そんなことができても何の意味も価値もなかったはずなのに。このことはもちろん将棋などにも当てはまる。

人が日常生活を送る中で需要が生じないeスポーツも、同じ道を辿らなければならない。

※僕の意見はあとで詳述するが、皆さんは人がeスポーツに熱中する理由を考えたことはあるだろうか。eスポーツの本質的な価値とは何か、言語化したことはあるだろうか(儲かりそう、若年層が多い、人が集まる、といった価値は副次的なものだ)。

市場またはエコシステム作りの一環としてのリーグ

なぜ需要を作らないといけないのか。野球を例に出したので、NPB(日本野球機構)のリーグで例えてみよう。

ある選手が福岡ソフトバンクホークスに所属したとする。チームはその選手に人気がなく売上を生み出せなくても、そのプレイスキルに応じた年俸(給料)を支払う。将来リーグで活躍すれば人気が出るかもしれないし、チームが強くなることでチームがより人気になるかもしれない。そうすれば売上に繋がるので、現時点での年俸は将来の貢献に対する前払いであり投資だ。

こうした投資が可能なのは、NPBのリーグにすでに大きな需要があり、投資を回収可能な市場ができているからだ。つまり、福岡ソフトバンクホークスに人気があり売上があるということ。だが、多くのeスポーツタイトルではそういう市場が存在していない。だから、eスポーツチームに福岡ソフトバンクホークスと同じような選手待遇を求めるのは非常に難しい。

これは「eスポーツチームはすべての選手に仕事の対価(固定報酬)を払うべき」という言説に応答したものだ。資本主義の申し子らしい主張でもっともだが、日本ではいまのところ、多くのeスポーツタイトルで選手のプレイスキルは売上に繋がっていない場合がほとんどだ。選手が売上に貢献するには、人気があることが不可欠となっている。

そして悲しいかな、プレイスキルが高くても人気があるとは限らない。それは、選手のプレイスキルが高いことに対する需要がまだ作られきれていないからだ(野球や福岡ソフトバンクホークスの場合はそうではない。また、プレイスキルの高さを売上につなげる試みについてはこちらの記事を参照)。

この構造を前にすれば、プレイスキルが高いだけの選手は現状、需要=売上を生み出しにくいことが分かる。チームやオーナー企業にとって選手は商品なのだから、売上を生まない商品にどんな地位が与えられるというのか?

資本力のあるチームなら別だが、明らかに(ほとんどがそうであるように)新興のeスポーツチームが売上を生まない選手に固定報酬を支払うのは難しいだろう。だから、多くが成果報酬にならざるをえない(成し遂げた仕事に対して成果報酬を支払わないのはおかしい)。

とはいえ、固定報酬を採用しているチームもなくはない。前述したように、オーナー企業に資本がある場合と、市場が存在する場合だ。市場とは1つにはトップリーグのことだ(中長期のツアー形式や定期開催の大会も含む)。LJLに参戦しているDetonatioN FocusMeではいち早く固定報酬が実現されたし、RSPLでは最初からチームから選手への固定報酬が義務づけられていた

リーグはeスポーツにおける市場(エコシステム)の一環である。競技ではなく市場の面からその役割を簡単に言うと、継続、集客、注目となる。リーグはチームや選手が継続的に活動し、観戦者やファンが集い、スポンサーが注目する場だ。

ストリーマーや動画クリエイターとeスポーツ選手の何が違うのかといえば、試合をして活躍を見てもらうリーグの有無だ。NPBのリーグがいかに重要かを思い出してほしい。リーグは選手のプレイスキルや人柄の高さを評価し、売上を生み出す場なのだ。

ただし、リーグがあっても充分なエコシステムを構築できているケースは少なく、eスポーツタイトルによってはリーグがない場合すらある。だから、リーグの発足や継続にはチームから働きかけることも必須となる。そしてそのためには、チームがファンを作って観戦に誘わなければならない。リーグを観戦してくれる人がいなければ売上は生まれないからだ。

では、チームはどうやってファンを作ればいいのか。コンテンツを作ることによってである。

コンテンツこそ最強の手段

Bリーグを立ち上げた1人である葦原一正の『稼ぐがすべて Bリーグこそ最強のビジネスモデルである』は、eスポーツビジネスに関心があるすべての人が読むべき本だ。本書ではスポーツチームが陥りがちな「まず強くなって、それから稼ぐ」という考え方を真っ向から否定している。スポーツチームは「まず稼ぎ、それから強くなる」べきなのだと。

これはeスポーツチームにも当てはまる。強くなるにはまず稼ぐ。稼ぐためにファンを作り、ファンを作るためにコンテンツを作る。コンテンツはチーム(選手)自身である。

コンテンツといえばゲームや漫画、映画、動画、写真、音楽などエンタメ作品(の中身)を想像すると思う。ここでもそのイメージで間違っていない。あるいは物語や感情、人物像もそうだ。コンテンツはそれ自体をパッケージングして商品として販売できるほかに、商品を宣伝するための手段としても利用できる。

例えば、漫画作品の広告でその作品内の数ページが使われることがある。映画作品の宣伝はその作品内のシーンを切り貼りしたもので行なわれる。最近は本のプロモーションで無料の全文公開が流行っている。商品の中身を実際に見せてしまうのは、「面白い」「感動した」といった美辞麗句よりも強力であることが多い。これはサブスクリプションのサービスが登録初期の期間を格安や無料にするのと同じ理由である。

ゆえに、コンテンツは最強のマーケティング手段だと言える。モノやサービスを販売する多くの企業がそのプロモーションのためにコンテンツを作り始めている。もともとコンテンツを販売していたのに、どんどん無料で提供して別の方法でマネタイズしている企業もある。ビジネスにおけるコンテンツの重要性は何度声を大にして伝えても足りないくらいだ。

eスポーツチームにとってもこのコンテンツが欠かせない。しかし、いったいなぜそんなにコンテンツが大事なのだろうか。なぜマーケティングに有効なのだろうか。それは、現代人がいろんなところに退屈を発見してしまったからだ。

僕たちはいまや、食事をしている時間、歩いているとき、信号待ち、それどころかエスカレーターに乗っている数秒間にすらスマホを手にする。それどころか、テレビ番組や動画を観ているときにもスマホを触っている。そのときに感じる退屈をどうにかしたくて、スマホで得られるコンテンツを探してしまう。

ここで言う「退屈」は「暇」のことではない。詳しくは國分功一郎の『暇と退屈の倫理学 増補新版』やインタビュー「「暇」を楽しんでこそ自分が磨かれる」を読んでもらいたいが、暇とは「何もすることのない、する必要のない時間」のことであり、退屈とは「何かをしたいのにできないという感情や気分」のことだ(上記インタビューより)。

暇ではないけれど退屈だという状態もありうる。Excelにデータ入力をしているときに音楽を聴くのは、手と目は暇ではないが耳が退屈だからだ。意識を持つ人間であれば絶対に感じるこの退屈を、コンテンツはどうにかしてくれる。一時しのぎであっても退屈を感じなくさせてくれる。僕たちが意識を持つ人間であるがゆえに退屈を感じざるえないこと、これがコンテンツの重要性を支えている。

企業は僕たちが感じている退屈を、自社の売上に繋がりうるコンテンツで埋めようとしている。eスポーツチームが同じことをしないでいる理由はない。むしろ、みずからがコンテンツであるチームは、自由自在な形でにそれを切り出すことができる点で企業よりも有利な立場にあると言っていい。そのコンテンツが受け入れられるようになれば、企業はそれに乗っかって自社商品を宣伝したくなる状況に……!

退屈を埋めるコンテンツを作る

あなたはエスカレーターに乗っている人が感じている退屈を埋めるコンテンツをどう作るだろうか。あるいは、学校の休み時間に友達同士で集まってどうでもいい話をしている学生に対しては? 風呂上がりにゆったりテレビ番組を観ている社会人のためにどんなコンテンツを?

言うまでもないが、現代はさまざまなメディアが僕たちの日常を囲んでおり、切り刻まれた退屈があらゆる瞬間に浮かび上がってくる。どんなメディア(表現媒体)があるかといえば、動画、ストリーム、写真、イラスト、記事、ツイート、チャット、場などがある。退屈する時間は、おおよそ10秒、10分、1時間をベースに考えるとよさそうだ(根拠はあるが長くなるので省略)。

例えば、10秒の退屈ならツイートや写真。10分なら動画や記事。1時間やそれ以上ならストリームや場。当然ながら、大会は最も濃密で華々しいメディア(でありそれ自体もコンテンツ)だ。チームはこうした形式に対し、いかなる形でも難なくコンテンツを切り出すことができる。

また、人がどんなときにどんな退屈を感じるかを考えるのは、退屈を感じている人について考えることにほかならず、それはまさしくこれから作ろうとしているコンテンツのターゲットである。さらに、彼らは手が退屈なのか、それとも目か、耳か(基本的にはこの3つの知覚で退屈が生じる)。

メディアと退屈をこのように捉えると、コンテンツを掲載するプラットフォームもおのずと決まってくる。大事なのはいいコンテンツを作る前に、どのような経路でコンテンツに触れてもらうか、チャネルを充分に検討することだ。いいコンテンツを作っても、そこに辿り着く道が整備されていないと意味がない。

退屈しのぎのコンテンツを作らないといけないのか、と疑問に思うかもしれない。そのとおり。なぜなら、eスポーツ自体にはまだ需要がないからだ。ゲームや野球において需要を作ってくれた先人はいない。いまこの時代のチームが先人になり、退屈しのぎ以上の価値=需要を作らなければならない。

ゲームがそうなったように、退屈しのぎの手段として当たり前にeスポーツを思い浮かべてもらえるようになれば、そこには市場ができる。そして同時にeスポーツの価値を正しく伝えていければ、eスポーツは野球のようになる。つまり、eスポーツ自体が求められるようになる。

「eスポーツ自体が求められるようになる」とは、eスポーツチームや選手を応援したいという需要が生まれるということ。他人を応援することは、自分の資源を差し出すという意味でおそらく最も強烈な人間らしい退屈しのぎだ。eスポーツチームは最高の形でその機会を提供できる。

ところで、先ほど提示した問いについて考えよう。eスポーツの本質的な価値とは、退屈を感じなくさせてくれることにある。「何かをしたいのにできないという感情や気分」を晴らすために、人はeスポーツに手をつけ、トップを目指し、他人を応援する。退屈でないなら──日々の生活で退屈していなれば、わざわざeスポーツになど振り向かない。

退屈に悪い意味はない。退屈は人間的ですばらしい。人は退屈を感じるからこそ文明を築き技術を発展させてきた。しかし、その発展のせいでさらに退屈を感じる時間が増えている。退屈をしのぐために、人はゲームだけでは飽き足らず、eスポーツを作り出した。そして逆に、退屈でなければ人はeスポーツに興じない。

複雑なルールが組み合わされたこの刺激的な構造物は、攻略のしがいがある。そして、攻略している人には応援のしがいがある。どちらも人が最も嫌う退屈を見事に打ち消してくれる。人が人のために作ったたかがゲームに全身全霊を懸けることをeスポーツと呼ぶのだ。実に倒錯的で、無駄で、美しい。それゆえに、おそらくeスポーツは今後も「飽き続ける」人を引き留めるだろう。

死に物狂いで需要を作るしかない

しかし、日本ではまだ多くの人がeスポーツの価値を知らない。だから、それを知ってもらうために誰かがコンテンツを作らないといけない。誰が? チームがだ。

仕事や学業で時間がない中で練習しているから、コンテンツまで作っている余裕はないかもしれない。それでも需要がない現状ではやるしかないのだ死に物狂いで。お金があるなら人を雇って。お金がないなら自分の時間を突っ込んで。どうしようもない精神論だが、市場がない状態のいまは、最前線の──eスポーツで食べていきたい人たちがやるしかない。

成熟した市場の方法論は通用しない(働き方改革とは?)。やるしかない。手助けしてくれる人はいるし、コンテンツを作っていけばそういう人が増えていく。僕もnoteでコンテンツを作りたい人のための相談室をやっているが、このように無料で手伝ってくれる人はほかにもいるだろう。

コンテンツを作り需要を作れた先には、いくらでもマネタイズの方法がある。それはサブスクリプションかもしれないし、広告や協賛、プロダクトやサービスかもしれない。すでにそうした取り組みを始めているチームがいくつもある。いずれも、心身とお金と時間を尽くしてコンテンツ作りに注力し、自分たちへの需要を作ってきた(大勢のファンがいる)チームばかりだ。

最後に。こうしたeスポーツチームの力を借り、活用したいと考えている企業においては、彼らを単なる広告枠として見るのはやめてほしいと言いたい。eスポーツチームの最大の魅力はインプレッションやエンゲージメントではなく、それを生み出すコンテンツを作るクリエイティブパワーだ。ゆえに、企業は彼らとクリエイティブパートナーにならなければならない。

さて、この記事ではコンテンツ作りの具体的なノウハウには触れなかったが(例えばこの記事をどうぞ)、なぜeスポーツチームが最強のコンテンツメーカーになれるか、なるべきかは示せたと思う。あとは、これが一番重要で難しいことだが、需要を作るだけだ。まずはコンテンツ作りから始めよう。

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