【散文】カフカの感想

フランツ・カフカの短編の感想を書きます。岩波文庫の『カフカ短篇集』に収録されている『夜に』という、わずか1ページの掌編です。

今回、それを全文引用してしまおうかと思っています。(!!)著作権侵害にならないか? と考えると、危ういです。文庫本においてたった9行と、とても短いのです。この短さ故に、大目に見て頂けないでしょうか。無理かもしれませんが。

ゲーム実況のように、文章実況のような物をやってみようと思います。


みなさんはフランツ・カフカについてどんなイメージをお持ちですか? 有名、もしくは知らない。名前だけ知ってる。本感想文では、カフカという人を少しだけ事前に紹介するという邪道な順序を、敢えてとってみようと思います。文章を読む前にその作者に対する予備知識を持つというのは、読解するにあたって先入観となりかねません。いや、きっとなるでしょう。しかし、僕の思うところでは、古典を取り揃(そろ)える岩波文庫として書籍化されているというその事実だけで「不必要な先入観」を形成するには十分なのではないか、と......そのように思われるのです。露骨に言い換えると、「岩波文庫としてスタンダールやらゲーテやらと肩を並べているのだから、きっとそれ相応の物に違いない。きっと面白いのだろう。カフカは世界から認められた大作家なのだ(ろう)。」と読者が無垢(むく)にも考えたとしても別に不思議ではなく、そしてそれも一つの立派な先入観だと僕は思うのです。

巨匠の作品を読み解くとなっては、「きっと難しい内容に違いない」とか思い、意味不明な箇所があっても「自分の読解力が足りないのかもしれない」と殊勝に喰らい付くかもしれません。

カフカは生前、ほんの数点の作品しか公表しなかったそうです。つまりカフカは、死後に評価された作家のようなのです。生前に公表された数点のうちに、今日では彼の代表作とみなされているらしい『変身』が含まれているところを見ると、彼と同時代の人々はカフカの作品に価値を見出さなかったのだろうと思われます。

そんな、無名時代に見向きもされない文章が、今日の日本では、岩波文庫に大御所として軒(のき)を連ね、読者はそれを少しも不思議に思わないのです。「カフカがこんなところにいるよ!(笑) 世も末だね。」とはならないのです。

無名の新人の作文を読むのと、巨匠の名作を読むのでは、読者としての気構えが、あまりに違うと思いませんか?

今回の僕のこの感想文では、「有名らしい、きっと凄いに違いない作家フランツ・カフカ」という先入観ではなく、「見向きもされない無名作家」の文章という先入観を持って彼の文章を見てみようと思います。また、本感想文を読んで頂いている方にも、そんな視点を以って彼の文章を見て頂けたらなと思っているのです。

彼の文章が面白いかどうか、判断してやろうではありませんか。自分の頭で。

***

余計な演出を施さないために、普段noteで使う引用の機能(グレーの下地の囲い)は敢えて使わない事にします。以下、引用です。


『夜に』

夜に沈んでいる。ときおり首うなだれて思いに沈むように、まさにそのように夜に沈んでいる。家で、安全なベッドの中で、安全な屋根の下で、寝台の上で手足をのばし、あるいは丸まって、シーツにくるまれ、毛布をのせて眠っているとしても、それはたわいのない見せかけだ。無邪気な自己欺瞞というものだ。実際は、はるか昔と同じように、またその後とも同じように、荒涼とした野にいる。粗末なテントにいる。見わたすかぎり人また人、軍団であり、同族である。冷やかな空の下、冷たい大地の上に、かつていた所に投げ出され、腕に額をのせ、顔を地面に向けて、すやすやと眠っている。だがおまえは目覚めている。おまえは見張りの一人、薪(まき)の山から燃えさかる火をかかげて打ち振りながら次の見張りを探している。なぜおまえは目覚めているのだ?誰かが目覚めていなくてはならないからだ。誰かがここにいなくてはならない。

(池内紀編訳『カフカ短篇集』岩波書店、1987年、p.178)


以上、引用です。

どうでしたか。どう思われましたか?

面白いでしょうか。つまらないでしょうか。意味がよく分からない、読みにくい、などの感想があるんでしょうか。


実はこれ、僕が作った詩なんです。(ドーン)。すみません。引用というのは嘘でした。ある種の先入観を用意したら、僕の詩が読者の目にどう映るのか、それを実験したいあまり、嘘をついてしまいました。フェイク記事を作ってしまいました。騙してごめんなさい。

ただ、作品が、誰が作ったどういった物であれ、文章という明確に形のある結果としてそこに存在している事実は変わりません。その文章が面白いかどうかは、基本的には、予備知識や先入観なく、その文章の内容のみで判断されるべきだと思いませんか? でなければ、例えば文学賞などにしても、誰々が書いたから落選だ入選だとかいう、そういう事にもなってしまいかねません。

実際には、世の中にはそういう面があるのかもしれません。世の中はうまく出来ていないでしょう。世間の評判によって人々の考えが左右されてしまう事は、いかにもありそうです。ひょっとしたらそれが日常茶飯事でさえあるのかもしれません。

だとしたら、もしそうなのだとしたらそれこそ、こうして出自を偽って物を提示する事の方が、愚直に内容を作る事よりも核心的な事になってしまうかもしれません。商品の値段をあらかじめ高額に設定するからかえってありがたがられる。誰ともつかぬ者がセミナーなる物を突如開催し、弟子を取り始める。

料理とかなら、美味い不味いは、個人の感覚としてですが、比較的に確かに存在し、実感できるような気がします。

しかし文章はどうでしょうか。文章の良し悪しは、料理にくらべて、判断の基準があいまいだと思いませんか? 文章という物の性質上、小難しい言い回しがまかり通るあまり、「お前は理解出来ていない」というロジックが幅を利かせ、実感のないところに権威付けがなされる、ある種非民主主義的な側面の強い世界ではないでしょうか。ノーベル文学賞の受賞根拠に納得のいく人がいったいどれほどいるというのでしょうか? それだけでなく、「文学賞の事なんて分からない。自分には理解の及ばない、きっと高次な判断が下されているに違いない。」などという無思考を、判断の放棄ないしは諦めを行なっているのではないでしょうか。“そのような判断”には一理あります。しかしそうとはいえ、それでは、自分には理解出来なくても、世間に凄いと認められたらしい物や人には“へいこら”するというのでしょうか? 実際は、そうなのかもしれません。世の中なんて弱肉強食で、飲み込んだ者が勝ちであり、受賞者とやらを“笑ってのける”猛者、ないしは不届き者、ないしは愚か者は、あまりいないのかもしれません。長い物には巻かれるのかもしれません。考えてみれば自然です。

しかし、そんな無思考な連中が、僕の作品に対しては“一丁前に”思考し始めて、やれここが悪いだのやれ分かりにくいだのと“ぬかし”始める事に、僕はなんだか納得がいきません。

すみません、言葉が荒れました。巨匠の作品の難解な部分は「なんか知らないけど意味があるのだろう。」と考え、僕の作品に対しては「意味不明。つまらん。価値もない。」と考える。“分からない”という現象の中に、彼らはどうやってその区別を見出しているのでしょうか? 説明出来るのでしょうか? いいえ、出来ないでしょう。読解力のない人にとっては、出版されたかどうか、受賞したかどうかという表面的な事実ばかりが重要なわけですから。結局作文も読書も中身の伴わないファッション(社会的なカッコつけ行為)に過ぎないのです。中身以外のところに納得も満足も由来しているのです。文章そのものを見る目を持っていないどころか、初めから見る気さえないのです。彼らにとっては、有名な作家の名前が、自分の人生のお守りとして機能するわけです。虎の威を借る狐です。そこに内容は必要ないのです。恐らく、カバーを付け替えても彼らは読む事でしょう。違いますか。違うなら、上に挙げた『夜に』という作品に対してどう思いましたか。今それを考えてみて頂きたいのです。面白かったのか、つまらなかったのか。それを今、思い出してまとめて頂けませんか。『夜に』は、正真正銘カフカの作品です。僕の自作詩だという事の方が嘘です。すみません。真偽の程は、当然ですが出典を明記してあるので、それを元に図書館や書店でご確認頂ければ、お分かりになると思います。『夜に』の感想をお待ちしています。僕自身はそれの感想を、本記事でほとんど何も書いていません。すみません。今後の記事で書いて行こうと思っています。


***

ここで問題です。

あの『夜に』という作品は、誰が作った物でしょうか? 事実そのものよりも、あなたご自身はどう思われますか?




即答出来なければ、僕の勝ちです。

可哀想ですね、カフカが。プルースト、ジョイスに並ぶ二十世紀の代表的な作家(ウィキペディア調べ)の文章が、「ナスカーチャが書いた物かもしれない」とちらりとでも思われてしまったんですから。そんなチープな作品に見えましたか?


即答した人は論外です。考える事をしていないからです。明確な根拠なんてあるわけがありません。一つ一つの言葉遣いが、僕が巧妙に仕組んだ罠かもしれません。即答するという事は、そういう可能性をちらりとでも考えないという事ですから。



ごめんなさい。でもご安心ください。この「勝負(笑)」は僕が勝つように出来ているんです。

なぜなら、カフカはつまらないからです。


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