消費するように書く
僕は消費するように文章を書いている。コンテンツを生み出しているのではなく、いわばその逆を行っている。対価を得うる文章ではなく、逆に、僕の文章を人様に読んでもらおうと思ったら、僕の方がお金を払ってお願いしなければならない、そんな文章だ。なぜなら、僕は自分の言いたいことだけを書いているからだ。
僕の文章は、僕のお一人様劇場であり、自分だけのための遊園地だ。お客様なのは読者ではなく、僕自身なのだ。僕がもっともわがままになれて、世間的な意味合いをずっと超えて「自由に」振る舞える場所、それが僕の作文だ。そういうスタンスで文章を書いている。趣味として。気晴らしとして。ひとつの健全な日記として。
自分の文章がーーいや、自分のものに限らず、他人の文章についても言えるかもしれないーー、読者をおもてなししようと、客観的に見て「言うに値すること」を書かなければならないという、そういう殊勝で、従順な、勤勉とも言える窮屈な態度で振る舞うのではなく、文章から堅苦しいタガを外し、一文一文が、悪い意味も含めて自由に奔放に、他人が予想しない方向に向かっていく文章であることに、僕は快感を覚える。「そのように振る舞っていいんだ」と思わせてくれるからだ。
それは、自己中心的な振る舞いではあろう。読者に読まれようなどとは、少なくとも真っ当な形では思っていないからだ。そのような書き手は、対価をもらって書くというような方向性ではなく、つまり、読者に仕えるのではなく、あろうことか(?)、逆に、こんなに自由に振る舞える自分はなんと魅力があるのだろう、と、圧倒的に上から目線で読者に迫るのである。自意識や自己愛を、根底で、はばかるどころか主張しでかし、自分で自分はセクシーだと、大真面目に言ってのけるのである。
文章が、客観的に価値や意義のある内容を追っていかなければならないという態度は、わかりやすく言えば、商業的というか、非常に通俗的であり、色気がない。僕が学生の頃ーーそれも、高校生の頃ーーに惹かれた文章に、ライナー・マリア・リルケという人物の書いた『マルテの手記』というものがある。これに登場する文句に、次のようなものがある。うろ覚えだが、
「私はぼちぼち見ることから学んでいこうと思う。」
翻訳なので、日本語での一字一句は、考えようによっては重要ではないかもしれない。僕はこの言葉を、特別面白いと思ったわけではないが、なぜかこの言葉だけよく覚えている。高校生であった当時は、読解力というか、文章に対して自分が判断なんぞを下すという態度とは無縁であり、書かれていることに対して呆然とただ受容することしかできないというような読み方しかできずーーいや、受容さえしていない。ただ呆然と眺めるだけが精一杯だったーー、リルケのそんな言葉に漠然と惹かれていたのだが、いまの僕なら、この言葉がどんなものなのか、自分で判断して、論評なんぞを下すことができる。
この言葉は、しょうもない言葉だ。抽象的で、大して意味がない。常識的な大人や、また、常識的な文脈では「まず書く価値がない物」であろう。良識的に生きている人は、こんなことを書きはしないだろう。特筆性がないから。こんなことを書こうという奴は、常識的な観点から見れば、勘違いした奴と言える。よほど自分に自信があるのか、自惚れている。実用とは程遠い、そんな類のものを書き連ねる精神は、自己陶酔に他ならないだろう。
文学とは、たとえ表面的にどんなに卑屈に満ちていても、根底では「自己陶酔的な生」であろう。『ドラゴン桜』という漫画に「(こんな壮大な計画を)酔わずにやってられるか」と開き直る台詞があったと思うが、ようはそういうことである。
文学は、他人が書かないことを書きに行くものではないか。他人が「これは書く価値がない」と見向きもせず掃き捨てた物の中に、新しく価値を見出せなければ、それを凡庸という。
特筆性がないことを書くのが文学である。だなどとほざいてみる。目に見えた特筆性があったら、それは記事として通用する。articleである。元来、明治時代に登場した私小説なるものだって、自分の卑近な体験談という形式でわざわざ物なんか書いて、どうしようと言うのだ、と言われたのではなかったか?「面白おかしいではないか」と作者は主張するが、年配の人からは「くだらない」と一蹴されてしまう。
僕はnoteを始めて以来、文章における自分の態度のデカさについて、たびたび反省してきた。常識的な他人のnoteを見るたびに、自分はなにか根本的に間違っているのではないか、と思い返すからだ。常識的な人のnoteは、他人との距離を適度に測り、コミュニケーションとして、いわば「ちゃんと」文章を書いている。そういう社交性を目の当たりにするたびに僕は「やっぱりそういう振る舞いが人の取るべき態度なのかな……」と良識なのか怖気なのか、そんなものをぶり返してしまう。他人に抑圧されて、身の丈をわきまえて振る舞わされる、それが社会ではないか。僕が憧れた文章に、そういうものが一つでもあったか?ランボー、小林秀雄、リルケ、ヴァレリー、etc.。僕が憧れた文章はどれも、どうしようもないナルシストであった。
自分のとるべき態度、書くべき文章を、かれこれ僕はずっと迷っている。今回だって、なんとなく衝動に駆られて書き始めた。結論ありきで書き始めるなんて、そんなちゃんとした行為が必要な世界に身を置こうとも特に思っていないし。今回、自分は消費するように書く、と書き出して、しかしそういう非商的で自己中心的な書き方が、僕が好きであった純文学そのものではないかと、いまさらだが気づいた。もちろん、きっと、純文学にもいろいろある。自己中心的でないものもいくらでもあるだろう。でも僕は、そういうものを見て「退屈だな」と思ってきたのだろう。自分が好きだった文章を振り返ってみて、そう思う。僕は、自分の書く文章のジャンルが純文学であることを忘れてはいけない。それは、noteで多くの人が書く良識的な文章とは対照的な、本質的に傲った(態度の)ものだ。noteの僕の最初期の自己紹介で偽悪的に敢えて書いていたのだが、僕の文章はコミュニケーションを放棄している。それでいいと思う。誰もいない荒涼とした世界を感じさせてくれる文章でないと、僕は魅力を感じない気がする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?