今日も僕は
さて。今日も僕は、詩を書こうだなどと試みているわけだけど。というか、さっき書いた。いまは、もう寝る前。フライングして言っておこう、おやすみ。おやすみ、ハイ・ポグニフ(君の名前)。
ここ何日か、僕は少し無理して自分の詩の書き方を変えていってみてる。noteに投稿しても、その詩がどういう詩なのか、良いのか悪いのか、好きなのか嫌いなのか、ちっともわからないからだ。別に誰のせいでもないけど。
これは難しい問題だ。鏡を見ないで自画像を描くようなものではないか。僕は自分が何を書いているか、恐らくわかっていない。それとも、それは謙遜なのだろうか。自分ではわかっているつもりか、それとも本当にわからないか......それさえわからない。アホ。
しかし、結局、鏡を見ても、そいつが誰なのかわからないじゃあないか。最も見慣れた他人であるというだけで。ひとつ面白い証言がある。自分の書いた文章が、まるで他人が書いたもののように見えたなら、それは良く出来ている、というものだ。それこそが創作であり、技術である、と。どうなんだろうね、これ。証言がある、と言っておきながら、実は僕がいま作りました。(頭)ポンポン、ヨシヨシ。
ウホウホ、ポンポン、ヨシヨシ、ポンポン。
僕という一条(ひとすじ)の穎才(えいさい)たる閃光が、
不遇の闇に飲まれて震える貴殿の足取りを、
ーー
さらに絡め、複雑に、そしてより強力な苦悩へと没落させた挙句、
混乱と憔悴の奈落へ突き落とす。
ウホウホ、ポンポン、ヨシヨシ、ポンポン。
僕はなにがしたいんでしょう?
人はなぜーー歌にしろ、絵にしろ、文章にしろーー、
(僕を含めて)「下手な人」はなぜ、自分が下手なことに気がつかないのであろう。
ふと思う、
それは、
好きでやっているからだ。
「好き」は邪悪である。
これが僕の考えさ。悪魔に弱みを握られた僕たちの、最後の免罪符。
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