[文体の計画および考え方_その①]
・文人らしい雰囲気を避けるために口語体をたまに取り入れる。
で、それは、それだけでもうその時点で、「売れ」を結構放棄する事になる。だって、文章を書いたり読んだりする人が好みそうな大人しめの雰囲気じゃないから。「ああ、コイツ馬鹿そうだな」とか「こういうのいいや」と思われるだろう。
俺は、従来の小説がもつ「かしこまった」イメージに反抗したくて、そういった口語体を取り入れていたのだった。
まあ、そういう工夫自体は全然珍しくないだろう。ライトノベル(?)とかでよく取り入れられてそうだ。
そして重要なのは次の点だ。この口語体の特筆性についてだ。「従来的な、いわゆる文人は、この口語体に特筆性を見出さない」。この事を忘れてはならない。この事を忘れて、noteユーザー層の多数から目を向けられない事を見て、それを反省などしてこの方向性を改めるのはナンセンスだ。俺はそもそも、文章や作文という物が、従来的なかしこまった世界の物だけでなく、もっとストリート的な物(?)で良いではないかという事を主張するために口語体を採用しているんだ。「作文をする“新しい層”を開拓したい」。そうとでも言えるような物としてやりたいんだ。俺の文章の「独自な特筆性」を認めてくれるのは、俺の文章を見て良いと思ってくれる、俺と似た価値観を持っている人だ。そしてそのような人は、今noteにはあまりいない層だと思う。俺は自分の独自のバランス感覚に基づいた新たな好みを主張し、分野や層を開拓したいと思っている。
俺の文章は、従来的な文人の目には止まらないだろう。彼らが取るに足らないと見なしてきた物の中に、俺は特筆性を見出しているからだ。これは新しい生き方だ。
くだけた口語体が取り入れられてる事に(それこそ冒頭とかで)特筆性を見出せず、つまり「くだらないな、取るに足らないな」とみなしてしまうのは、文章に何か壮大な物を求めている、頭の固い層の人たちなのだ。そういう人たちは、文章という物は日常会話とはキッチリ区別される物だと思って疑わない。そして俺が最も言いたいのは次の点だ。そういう人達は、くだらない冗談を言い合ったり、ただイチャイチャしたりするだけの事とは違う何か大層な物を求め過ぎ、そういった大層な物に力点を置く事を人生と認識しているんだ。つまんないそんなの。学会とかにでも行っててください。文壇?いいんじゃん?ヤバい、辛辣かも(?)。俺がそれと違うのかよ、ってツッコミがあるなら、それならそれでわりと結構な事だ。だって、従来的な人たちから見ても面白いと思って貰えたって事でしょ?大差ないならそういう事だ。やっぱりちょっと憂えた方がいいのかも、大差ないのだとしたら。
(その②へつづく)
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