詩の書き方と、楽しみ方【解説】

みなさんは詩を読んだり書いたりされますか? 詩って、どこが面白いのか分からなかったり、なんだか感傷的で入り込めなかったりするような気がします。どうでしょうか?

ここで、自己紹介も兼ねて、詩に対する僕自身の考え方、詩の面白味や書き方、さらには良し悪しについて、簡単に述べようと思います。

自作の詩を例に出してみます。

風の車

風の車で走り出そう。
大地を優しく撫でるように。
草木の合間を縫って行こう。

風の車で走り出そう。
わき見運転してもいいよ。
風はどこへもぶつからない。

風の車で駆け上がろう。
街に旋風巻き起こそう。
大人しくなんかしてられない。

風の車で舞い上がろう。
君の街までひとっ飛び。
僕らはみんな、風の子さ。

我ながら良い出来です♪(爆)。僕は普段はこんなピュアな内容は書かないんですが、その事は後に回して、この『風の車』の見どころを僕なりにササッと解説すると、やっぱり面白味は「レトリック(修辞、修辞学)」にあると思っています。

レトリックというのは、「心に風穴が開いた」という類の表現です。物理的にはおかしいですよね。心には実体がないから、風穴が開くというのは、ある意味非論理的です。詩的表現というやつです。詩とはまさにこういう事なんです。

「風」という言葉を中心にレトリックを作ってみます。

風の車、風の扉、風の心、風が寝込んでる、悲しみの風、君の風、など。意外に簡単です。

日常的な表現にも「臆病風」というのがあります。ここから発展させ、「臆病台風」とか作れば、相当臆病な様子がコミカルに表せそうです。しかしこう堂々と表現されると、なんだかかえって強気や迷いのなさのような物が感じられたり...?しませんかね。しませんね。

では、普段の僕のダークな作風を少し紹介させて下さい。

機械仕掛けの「街の道徳」の歯車を二、三、俺は抜き取って来てやった。ほら、これだ。見事なモンだ。精緻な悪魔の芸術品。

(拙作『あなたと私』より抜粋)

こんな感じです。カッコイイです♪「街の道徳」が何を表しているのか分かりにくいのですが、隠語(暗号)でないのなら、つまり知っている人にだけ伝わるキーワードというのでないのなら、「道徳」と言うくらいなんで、まあ街のしきたりだとか街における価値観・倫理観などといった意味なのかなくらいに客観的には受け止められるかと思います(そんな事ない...?)。ですが、その意味合い自体は実はそんなに重要ではなく、「道徳」を機械と表現する、これもまたレトリック(ないしは比喩)であるところに面白味があると思っています。自分では。世の中の価値観は機械みたいに無機質で冷たい。そしてそれは、誰かが意図して作った物ではなく、まるで悪魔に作られたかのように、個人を超えて稼働している。その機械の歯車を「抜き取って」来たと言ってるので、この語り手は何か反抗でもしたいのではないでしょうか。作中には登場しませんが、「悪魔の機械」といった表現も連想されます。

他には、

ピコーデン少佐が俺を笑いながら言った。「(中略) 他人の思考に価値はない。読み手の事を考えろ」ごもっとも。俺は思考を慎(つつし)もう。

(拙作『三百六十度回転砲』より抜粋)

これは皮肉ですね。明確なレトリックではないですが、「思考を慎む」というのは強烈です。皮肉を込めてカッコつけつつ、さりげなく他人を否定してるようにも受け止められる際(きわ)どい内容です。僕はこういう表現を楽しんでしまっています。性格が悪いのかもしれません。...は?俺は性格悪くねーよ!

「悲しい」「疲れた」「人生の意味ってなんだろう」などと言う“だけ”の表現では、詩とは言いにくいと基本的には思っています。それはただのボヤキや会話であって、詩表現としては凡庸で稚拙に思えます。また、感情的な表現をただ連ねただけのような詩は、共感はしても、個人的にはあまり面白いと感じません。これは好みの問題だと思います。表現に工夫を持たすには、語彙そのものもあるのでしょうが、やはりレトリックが肝要と個人的には感じます。

『風の車』は“万人ウケ”を目指して、素直な表現を中心に構成してみました。しかし普段の僕の作風とは対照的なので、自分としては「ムズムズ」します。あまりこういった方向性に迎合せず、ダークで強気な世界観を持ち味にしていきたいと思っています。

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