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エッセイ:よぼよぼの年寄りが、それでもなんとかやっていくなら。

 初めましての人はあまりいなさそうな気がするけれど、冷蔵庫には物がパンパンに詰まっているのに、近所の店にせっせとかしわ飯(鶏おにぎり)や野菜を買いに行くうちの実家の老母を見てなんとなく思った事を買いておこうかと思う。

 年寄りの話というか、地域の高齢化というか。

 地域とは言っても、実のところ、うちはまだ地方の中ではマシな方でそこそこ栄えている地方だと思う。

 それでも如実に高齢化の波は感じるし、高齢者が自立して生活していくというのはどういうことなのか。

まあ大上段に振りかぶってはなすつもりはない。

 こういった事柄は、「誰にでも老いが来ていつか死ぬ」という程度には普遍的な事柄であり、それ以上にそれぞれの家族の個人的な話であるので、なんとなく思ったことを話そう。

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① 悠々自適に本を読む能力がなくなる、つまり老眼。

物理的に見えなくなる。

案外、「退職したら旅行しよう。」「やめたら本を読もう。」と思ってる人は多いと思う。

親を見ていても思う、うちの親もやめて10年はやたらとあちこちに旅行に行っていた。七十を過ぎたあたりから頻度が減った。

後期高齢者になった頃大病をした。

親は、それ以来、まともな「観光旅行」には行っていない。

行っても町内の日帰りバスハイクがせいぜいで、去年からは(コロナもあり)それすら行っていない。

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② 坂と階段は上がれなくなる。骨粗鬆症は男女を問わない。

うちの父もそうだが、母も。

日記で書いてきていたが、徐々に足腰が弱る。本人は大丈夫なつもりでいるが、速度が目に見えて低速化していく。

その結果、うちの母は町内でも急な坂は迂回して通るようになり、父に至っては今年脊椎圧迫骨折で寝付いたり、起き上がっても明らかに正常ではない状態でギリギリ動いている。

そういう変化も、徐々に進んで、ある日、一気に気付く。

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③ 掃除は行き届かなくなる、これは捨てる体力がないから。

これは、遠方で暮らしている人間の方が、たまにしか見ないために如実に感じるのではないだろうか。

父はともかく母はわりとまめな人間だったが、引っ越しもせずに半世紀も同じ一軒家に暮らして居れば、凄まじく物が増える。

本人が整理できているうちはいいが、段々と歳を取ると天袋に入れたような荷物は出せなくなるし、地層(積み重ねられた荷物を私はこう呼んでいる)の下の方にあるものの存在は忘れる。

冷蔵庫は物で溢れるのに、毎日食材がないと言って買い物に行くし、目が悪くなるのでその辺が微妙に整理整頓されていなくても気づかなくなる。

実家の台所で飲み食いするのは注意した方が良い。

うちの親は牛乳を飲んだマグカップを、気づかずそのまま棚に戻していた。

実家の台所が無事かは意外と外からは分からない。

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④ 老化は遅くすることはできても、若返ることはできない。

親が入院を繰り返し、この10年、ぼちぼち様子を見ていて思うのは、老化と死というのは自然の摂理で、逆行することはないということだ。

近視眼的に見れば、胃癌の治療も、骨折の治療もできるし、回復が望めないわけではない。

が。

本当に人というのは、緩やかに衰えていく生き物なのだと実感する。

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⑤ 足りなくても、ゆっくりでも、それが不幸ではないなら。

ただ、そこで、思うこともある。

人は誰でも老いるのだ。

有意義に、とか、効率よく、とかではなく、段々と片付けができなくなろうと、目が見えなかろうと、人はそれぞれ、自分のできる範囲で、人生を生きるしかない。

まあまだ数年生きそうな気配もあるけれど、不整脈や胃癌や骨折で病院にお世話になったようなことをこれからも再々繰り返すのだろうとは思う。

冷蔵庫にイカ🦑が複数あっても、庭が照明だらけになっても、まあ、それでも。

葬式を出すつもりはあるので、出来る限りは自分でやってみるといいとも思う。

投げ銭歓迎。頂けたら、心と胃袋の肥やしにします。 具体的には酒肴、本と音楽🎷。 でもおそらく、まずは、心意気をほかの書き手さんにも分けるでしょう。 しかし、投げ銭もいいけれど、読んで気が向いたらスキを押しておいてほしい。