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チケットのインクと私の記憶が薄れて思い出になる話

こんばんは。
1年以上日記を更新しませんでした。習慣化するってなかなか難しいな。そんな可愛いレベルの話でもない気がするけど。

最近の私はというと、卒業研究の中間発表が終わり、息抜きに友人たちと晩御飯を一緒に食べて、『すずめの戸締まり』を観てきました。私個人としては内容もおもしろかったし、久しぶりの映画館ですごくワクワクしました。

晩ごはんに食べたパスタ。映画館で写真撮るの忘れちゃった。

私は、映画館に行くまでものすごく腰が重いけど、行くとしっかり楽しんでまた行きたいなぁと思ってしまうめんどくさいタイプなので、自分からこれを観に行きたいなぁと思っても実際に行くことはなかなかありません。だから、そんな私に毎度声をかけてくれて、連れ出してくれる友人たちにはいつも感謝しています。

ところで、これを読んでくれているみなさんは映画館のチケットや遊園地の入場券を残すタイプですか?
私はしっかり残してこっそり予定帳のポケットに挟むタイプです。持ち歩いても外に出すことはほとんどないけれど、なんとなく友人との思い出を重ねているようで嬉しくなるし、偶然見つけたそれを眺めていろいろと思い出すのが好きなだけです。

チケットのインクと一緒に記憶まで薄れていく気がする

映画のチケットをしばらく保存していると、チケットのインクが少しずつ薄れていくことに気が付きます。それを見ると私はインクが薄れてしまうほど時間が経ってしまったのかと思うと同時に、そのときの記憶がかなり曖昧になっていることに気づいて少し寂しくなることがあります。誰と行って何を観たのか、その映画がどうだったのかは覚えていても、そこに行くまでの会話、空気感、もしかしたら席順までも、かなり曖昧になっている。そのときに楽しかったことは覚えていても、いつ誰が何を言って楽しかったのかは覚えていない。そんな記憶の曖昧さがたまに無性に寂しくなる。

記憶が曖昧になったとき、それは思い出として保存され直したのだと思う

これは私が3年以上前に日記に書いていた言葉。

私は、記憶が曖昧になったとき、それは「記憶」というフォルダーから編集して「思い出」というフォルダーに保存し直したのだと思うようにしています。人間、すべての経験や知識、感情も含めて記憶を保存していたらそのうちパンクしてしまう。例えば、「高校1年生の体育祭」の丸一日を記憶しているのは大変だから主要な部分だけを残して後は曖昧にしておくことで、情報を整理し、容量を確保する。
容量的な問題がなくても、おそらく人はある程度記憶を曖昧にしないとやっていけないのかもしれないとまで最近は思います。人はあまり過去に囚われてすぎてしまうと前に進めなくなる。だから曖昧にして原動力にする。そう思うようにしています。

こんな感じで記憶が曖昧になってしまっただけだと思ってしまうと寂しくなってしまうけど、ちゃんと思い出になった証拠なのだと思うと寂しさも和らぐし、思い出がとても愛おしくなる。それでもどうしても思い出以外に残したいなら、やっぱり写真を撮ったりSNSを更新したり、日記を書いたり、自分なりのやり方で忙しく眩しい日々を切り取って保存していかないといけないなぁ。


以上、ただ単に忘れてしまったと思わず、記憶が思い出になったのだと思うと、不思議と寂しさは和らぐし、思い出はとても愛おしくなる。そういうお話(?)でした。
こういうポジティブな思考がうまくできるようになるといいな。これは単なる私の願望。
今回みたいに数年前の私の日記に救われることがある。ありがとう私。

読んでくれた方、ありがとう。



#日記 #エッセイ #コラム


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