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人に会って、自分に会って、また人に会っては自分を探し、の螺旋の先には

どうやら 価値観 やら 思想 と呼ばれるものが見えてくるらしい

どんどん自分がなにをしたいのか、どんなことに興味があるのか、どうしたら動くのか、何に心惹かれるのか、笑顔でいれるのか、夢中になれるのか

なんてものが高いピクセルでみれるようになりだんだん次元もより高次元に見渡せるようになってくるみたい。

そうすることで常識や他者への依存というものに距離がどうしても出来てしまい、やがて自立という名の孤独の海に深く沈んでいく。

自立してしまうと自分の信じる世界や思想以外の事に対して、特に世間一般や身を置いているコミュニティでのルールなんかを遵守する際に、かなりの容量のエンジンをかけなければいけなくなるという事実に人は疲れ果ててしまうのだろう。

だって自立した人間は自立によって今まで信じていた世界を信じられなくなるから、それが下らなく感じてしまう。

テレビゲームに飽きた高校生見たく。

いや、正確にはちょっとちがう。
テレビゲームに飽きた高校生ってのは人生でのゲームチェンジが外的要因で起きてそれに流される形で飽きる事にしてる

それに流されなかったのがオタクという高尚な人達

彼らはゲームチェンジに流されなかった。しっかりと自立していた訳で、その世界の思想を信じきっていた人達だ。

どうやらそのゲームチェンジに敏感なのが僕らしい。

タダのミーハーである。

昔の僕はゲームチェンジに出来るだけ抵抗しようともがいていた。
それを負のエネルギーに変えてしまったり、運動で発散したり、それに気が付かず振り回されていた。

今の僕はゲームチェンジの波にのろうとする。でも波に乗るのが早すぎた感じもある。

ナンパだってそう、勉強とスポーツじゃ評価されないルールに気がついて女遊びを覚えた。

そして金が必要になるということもわかってお金の勉強を沢山した。
まだ回してはないんだけど。でも絶対に自分のものに出来る。

たぶんそうやってクリアしていってまた新しいゲームを見つけて行くのだろう。

昔はゲームチェンジによる新たな評価軸の波をみきわめて、その波乗りの感覚に自信が持てなくて怖くなって引き返していたけど、

今やその感覚が研ぎ澄まされてかつ、依存を分散する方法を知ってしまったから、とある価値観への帰属による群れから離れることの恐怖を感じなくなってしまった。それによってちゃんと一人で波にのれてしまう。

それが良いことなのか悪いことなのか、前に進んでいるのか、後退しているのかわからないけど、

前置きが長くなったけど、その自分の価値観を発見できた僕。

その為にやった事を一応記しておくとすると

興味のある事をやってる人に片っ端から会う
自分がワクワクする人達のコミュニティに飛び込む
大量に本をよんで言語化する力をつける
一人の時間をつくってからだと頭の感覚に敏感になる
瞑想する

こんなかんじ

多分これで誰しも価値観は深まる

けれど、もう元には、誰かや何かに依存してた、普通、常識という感覚には戻れないかもしれない。

そんな、遊び

ちゃんと先に何があるか示さなければならないと思ってる

今はまだ道の途中で寄り道の最中なんだ。

ナサニエルです。 好奇心ドリブンより何事もつぶやきます。