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反対側もあわせて用意したい

「一方で」と入れる人を、一目おくことが多い。

強めに主張してきた人のそれを、鵜呑みにして判定を下しちゃうことってけっこうあるけど、本当は良くないってわかりながらも、強めの主張には屈しやすい。

「まず手を挙げた人」「アピールした人」は評価されやすい。

本当は、「反対意見や別バージョンにも思考を巡らさなくちゃな」と思いつつも、つい「OK」と言ってしまう。そりゃあ、判定する方だって忙しいし、めんどくさいときもあるし、「賛同」だけをしたいだろうから、来た時点で「いいね」と言いたい。

真の最適解を出したい。毎度毎度ちゃんと判定したい。でも流されやすい。そういうものなんだろう。人は賛同したいし、迷いたくない。○と×の真ん中でうろちょろして目立ちたくはない。だから、パッと決めて収まろうとする。

だからこそ、「一方で」と、もう一方についてもちゃんと語ろうとする人、「一方で」も用意してくる人は、信用したくなる。

最近、私は「~と言われてるけど、もう一方はどうだろう」と考えるようになった。

例えば、「働き方改革」とか言って、早く帰る人を称賛する空気がある。「ほら、帰るよ」っていう声掛けは、もちろん良いと思うし、必要な職場は多くあるだろうからいいのだけど、一方で、存分に働きたい人だっているはずだ。成し遂げたいことがあって、「没頭したい」「いくらでもやっていたい」ってときはあるはずだ。そういう人も尊重したい。

メリハリ付けれて、どちらも叶う柔軟な組織にしたいものだ。みんなが「当たり前」と思っていない側にも最適解は必ずあるから。

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