鍵穴とココア
最近急に寒くなってきて、秋の深まりにそわそわする。
私は季節の中で秋が一番好きだ。涼しいと冷たいの間くらいの風を受けて散歩するのが好き。もう少し季節が進み、枯れ葉をザクザク踏みながら進むのも好きだ。一瞬で過ぎ去るこの季節を、今年も逃すまいと思っている。
寒い季節、3時間あまり残業して9時頃に駅のホームへ着くと、無性に温かくて甘いものが飲みたくなる。お腹ペコペコなのでとりあえず胃に何かを入れるためと、遅くまで頑張った自分を甘やかすために。
そんな時ホームの自販機で買うのは、ホットレモネードが私の定番だが、時々気分でココアを買う。
甘いココアを飲むと、毎回蘇ってくる記憶がある。あれは中学生の冬の日のこと。
私は北陸の雪国育ちで、冬は水分を含んだ重たい雪が積もるのが当たり前だった。その日は確かテスト期間で部活がなく、普段よりずっと早い、昼3時頃に家に着いた。
しかし、ない。どこを探しても、カギがない・・・!
ふくらはぎ辺りまで積もった雪の中を30分かけて歩いて帰ってきたというのに。
持ち物をくまなく探したがやはり見つからない。たぶん部屋に忘れてきたのだろう。普段は帰宅するとたいてい母親か4人兄妹の誰かがいて、カギがすぐ出せなくても困らなかったから、この日の焦る気持ちはよく覚えている。
そのうち同じ中学に通う妹が帰ってくるはずだが、雪の降る中気長に待つことはできなかった。冷静に考えれば、徒歩15分くらいで図書館があるし、ドラッグストアでもどこでも、寒さをしのげるところで夕方まで待つことができたと思うが、その時の私はこれ以上雪の中を歩くという選択肢を持ち合わせていなかった。
テレビで、ゼムクリップを針金の状態に戻して、鍵穴をカチャカチャやって開けている人を見たことがある。
私はカバンの中から、針金の代わりになるような細いものを探した。しかし、そんなに都合よく持ってはいない。
そこで、玄関横にたくさん置かれていた植木鉢の中で、一番細い枝をポキっと折った。これはいける。
いやいや、今思えばこんな馬鹿な話はない。木の枝で玄関のカギが空いてしまったら、セキュリティもへったくれもない。ああ、思い出すだけで自分が腹立たしい。
私は細い木の枝を鍵穴に突き刺して、何度かガチャガチャやってみた。それでカギが開くわけないのだが、その時はなんだか開きそうな気がして奥へ奥へ枝を突っ込んだ。
そしたら、これまたポキっと、鍵穴の中で枝が折れた。
当たり前だ。これはただの木の枝。金属と戦わせたら負けるに決まっている。鍵穴の奥深くで折れてしまった枝は取り出すこともできなかった。
どうしよう、どうしよう・・・と思っていたら、妹が帰ってきた。
「なーに、お姉ちゃんカギ忘れたの?」
と言って、妹が鍵穴にカギを指す。が、奥まで入らない。
事情を知らない妹は、「中に水入って凍ちゃったかな?」とか言っている。そんなはずもなかろうに。私はこの時、木の枝を差して中で折れてしまったことを正直に言ったかどうかはっきり覚えていない。多分、言って呆れられていたと思う。
二人で玄関で騒いでいたら、隣の家の若い奥さんが声をかけてくれた。
「大丈夫?カギ開かないの?寒いからうち入んなさい。」
私は確か、恥ずかしさとお隣に迷惑をかけることで後で母親に叱られるという思いから、最初はその申し出を「大丈夫です」と断った気がする。そういう時、妹はとても素直で「寒いから上がらせてもらおうよ」と、人の厚意に甘えるのがうまかった。
結局、お隣の家に夕方までお世話になった。
お隣の奥さんは「寒かったでしょう」と、ホットココアを出してくれた。それは、お湯で溶かすインスタントではない、「本物の」ココアだった。赤いホーローの小鍋に、ココアの粉末と砂糖、牛乳を混ぜて火にかける。インスタントココアしか知らなかった私は、とっても甘くて温かい匂いにドキドキしたのを覚えている。手と足が寒さで真っ赤になって痺れていたけど、ココアの入ったカップを両手で触ったら、じわ~っと、絵の具が布に染みていくように痺れが和らいでいった。
夕方に母親が帰ってきたら、「ほんとにあんたは馬鹿だね」と何度言われたかわからない。反抗期の私でも、この時ばかりは何を言われても反論のしようがなかった。業者を呼んで鍵穴ごと交換しないといけなかったので、夜になってようやく家に入れたと記憶している。
お隣には、母親が自宅用に買っていたミカンの袋を手に、急いでお礼と謝罪に行っていた。
お隣の奥さんとはそれ以来特に話す機会もなく、高校卒業とともに私は実家を出た。
しかし、あのときの赤い小鍋とココアの香りは今でも鮮明に覚えている。全身に染み渡るココアの甘い匂いに、恥ずかしさも後に待つ大目玉も忘れてうっとりした。
大人になって、温かい飲み物はたいていコーヒーか紅茶で、砂糖もミルクも入れない。
でも、残業でもうクタクタという風の冷たい日には、あのココアがどうしても飲みたくなるのだ。
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