「グラマフェマス」 第1話 醤油ラーメンとカツ丼と冒涜者
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企画とコンセプト
グルメ漫画のレッドオーシャンはリーチできる読者が多く、つい先日、「ドカ食い漫画」がトレンド入りしたのは記憶に新しい。
同時に、グルメ漫画は企画被りが発生するため、ただ食事するだけでは不足で、プラスアルファとして、なんらかの強いアクセントが必要となる。グルメものといえばほのぼのしたもの、日常物が多いため、本作は差別化のため、ややグロテスク気味のバトルアクションと、討伐後の報酬としての外食、グルメ×冒涜バトルアクションを提案する。基本的には1話完結とし、毎回違う物を食べることとする。ハードなアクションとグルメは対極の様であるが、相性は良いと考えており、近年では「ゴールデンカムイ」のハードなバトルと合間に挟まる狩りグルメの組み合わせがあり、「刃牙」も、バトルの合間に挟まれる食事シーンに定評があり、「ダンジョン飯」の例をあげるまでもなく、「戦い」と「食事」は密接に絡んでいるものである。「食わなければ生きていけない」「戦うためには食わなければならない」という人間の業に深く踏み込めるため、物語に厚みを出せると考えている。女性主人公というと自炊物が多いため、あえて外食、特に贅沢な物を食べることに特化する。
レギュラーキャラクターは3〜4人程度、お金が無尽蔵にある設定のため、浮世離れしたセレブ生活や旅行シーンと現地の食事も目玉描写の一つとする。話が進むにつれザフキエルら天軍の真実を暴き出すサスペンス風に舵を切ってもよく、バトルはアクセント程度にして外食とセレブ生活をメインに切り替えていくのにも対応できるため、話も広げやすいと考える。
主人公天使は色々なものを食べるため、共感を得やすいようあまり尖ったキャラにせず、同時に戦闘センスが高いキャラクターとし、サブキャラクターは特に尖った性能、性格とする。
タイトルは 暴食の英語「gula」と冒涜的な、という意味の「blasphemous」を組み合わせた造語である。
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本文
何の変哲もない町中華。一人の若い女性がそっと扉を開けて入って来た。
「いらっしゃいませ~!」
若い女性は、まるで初めて食堂に入ったかのようにキョロキョロと周りを見回してから、「ビールください」とだけ言って、入口近くのテーブル席に座った。頬はやつれ、目はくぼんでいる。
「はーい。お食事はなんにします?」
壁には手書きメニューの札が貼り付けてある。かつ丼、親子丼、ラーメン、ちゃんぽん、餃子、炒飯、唐揚げ定食、チキンカツカレー……。
「醤油ラーメンと、カツ丼ください」
「はーい。醤油、カツ丼〜! ビールどうぞ〜」
生ビールがドンと置かれる。
ジョッキはキンキンに冷えているようで、白い冷気が伝わるほどだった。
若い女性は初めて見たかのようにその黄金の泡立つ液体を見つめ、両手でつかむと、喉を鳴らして飲みくだしていく。
まるで砂漠を彷徨っていた者が久しぶりにオアシスに着いたようだった。半分まで一気に飲んだところで、ジョッキをテーブルに置いた。
「……はァっ……はあ、はあっ」
口を細め、女性は荒い息をつく。溺死寸前で水面から顔を上げたようだった。
「はーい、醤油ラーメンとカツ丼でーす」
女性はごくりとつばを飲み込むと、カツ丼の蓋を開けた。半熟の溶き卵が描く海に、ツユをたっぷり吸い込んだカツが、ふわふわと浮かんでいる。
三つ葉の代わりにネギが散らしてあって、緑のアクセントが美しかった。
女性は割り箸を口で咥えて割り、長めの髪をかきあげて一つに纏め、勢いよくラーメンに箸を突っ込んだ。固めの細ストレート麺をスープから引きあげると、麺と麺の間に琥珀色の膜が張る。
勢いよくすすると、香ばしい醤油の香りとほのかな豚骨の味が鼻を抜けていった。女性は一度呆然とラーメンをかき混ぜ、脂の乗った焼豚を掴み一口で頬張ると、肉を残したまま、麺を追加で啜る。ろくに噛んでもいない固めの麺が喉を滑り落ちる快感に、女性は身震いした。
「店長、あのお姉さん、すごい勢いで食べてますよ」
「ずいぶん腹減ってんだな」
女性はまるで栄養摂取装置のように、ラーメンを啜ってはカツ丼を掴んで米を放り込み、合間合間にビールを飲んでは、地の底から響くようなため息をつく。水の給仕に行ったバイトの子は、女性が涙をながしているのに気づいた。
「わっ、お姉さん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫です、すみません」
丼を離さないまま、女性は袖で荒っぽく涙を拭った。
「あんまりにも美味しくて、美味しくて」
くすっ、と、バイトの子は笑った。
「うちの醤油ラーメン美味しいでしょ。ゆっくり食べてくださいね」
「はい……こんなに美味しいもの、生まれて初めて食べました」
「えーっ。それは褒めすぎですって。あはは」
女性は最後の一本まで麺を口に入れ、カツ丼をかきこんでいる。米粒一粒残さず食べて、女性は深々とため息をついた。
「美味しかった……」
「ありがとうございやす!」
店主もにっこり笑って、女性を送り出した。
「ねー、店長。さっきのお姉さん、泣きながら食べてましたよ」
「懲役明けかもな。すぐ近くに刑務所あるしよ」
「そーんな、勝手に推測しちゃ可哀想ですよ。……え、刑務所ってビールもラーメンもカツ丼も食べられないんですか?」
「あたりめーだろ」
店長はゲラゲラ笑っている。バイトの子は、テーブルを片付けながら、女性の寂しそうな背中を思い出し……。
「またきてくれるかな」とだけ呟いた。
グラマフェマス ─Gulamaphemous─
七時間前……。
八華天使は、深夜から朝までずっと薄暗い部屋でゲームをしていた。
もう何日もまともに食事していないので、頬はこけていた。母が毎食、扉の前に食事を置いてくれているが、食欲も無くなってきて、最近はほとんど食べていなかった。餓死するのなら、それはそれでいい。ただ死んでないから、生きてるだけ。
高校一年生の時、天使というこの名前をからかった奴と喧嘩になり、それからいじめが始まった。元々人付き合いの苦手だった天使は、すぐに学校に行けなくなった。それから五年……毎日を浪費して、今に至る。なんとかしないと、と思っているし、勉強してみようと思ったこともあるが……すぐにどうでもよくなった。
このところ熱中していた高難易度のアクションゲームをクリアし、束の間の達成感を味わって、溜息をついた時だった。天井になにかの気配を感じ、ふと見上げる。
異形がいた。
青い炎が燃える円盤を背中に背負い、能面のような顔は真っ白で、切り裂かれたような瞳と口だけがあった。手足は異常に長く、胸と手足しかなくて、腰が無いようだった。
本気で驚いた時は、声すら出ないものだと、天使は気づいた。すぐに部屋から逃げ出そうとしたが、その長い手が目にも止まらぬ早さで伸びてきて、今度こそ天使は悲鳴を上げた。
気がついた時には、たくさんの死体の上で、寝ころばされていた。皆、一様におかしな鉄兜を被っていて、身体は裸だった。とにかく、見渡す限り、死体、死体、死体の山……。
「うわっ! わあっ! な、なに、なに!?」
「はじめまして、お嬢さん」
先ほどの異形が、ふわふわと現れる。天使はびっくりして、腰をぬかしそうになった。
「な、なな、なに、あんた、ここ、どこ……お母さん!」
「ここは冒涜者が巣くう世界。あなたは栄えある神の戦車兵|《メルカヴァリオン》の候補に選ばれました。すみやかにこの剣を取り、この世界の冒涜者の王を斬ってください」
何を言っているのか、一つも分からない。天使は慌てて立ち上がり、死体の山を駆けおりた。足元のぐにゅぐにゅとした感触が最悪で、地面に降りたときは心底安心した。
「死にますよ、そのまま進むと」
異形が言った意味が、すぐに分かった。
目の前に居る巨大な神像を担いだ、ボロボロの身体のゾンビが立ちはだかった。えっ、と天使が呆然となった瞬間、ゾンビが大振りで、像を頭に叩きつけてきた。強い衝撃、首の骨の折れる音、地面に叩きつけられる音。それだけ覚えていた。
痛い、という感情はほぼ無かった。
初めての死の感触は、そんなものだった。
「だから言ったでしょう。おじょうさん」
ハッと目を開ける。天使は思わず自分の頭を撫でた。どこも、どうもなっていない。
「えっ、な、なに? なに? これ」
「私は、あなたに、神の戦車兵になってほしいのですよ。一から説明するから、逃げないでもらえますかね?」
異形は腕組をして、やれやれと白い顔を振った。
「私はザフキエル。神の車輪と言われています。世界中から、あなたのよーな、引きこもりなんかの生きてない魂の持ち主を探して、神の戦車兵にする任を仰せつかってます」
天使はなにも言わず、体育座りして聞いた。
「我らが神の御業がまだ届いていない、もしくは果てなき時間の流れなどで、忘れられた世界では、こうしたおぞましい化け物、冒涜者どもが人間を食らったり、疫病をまき散らしたり、邪教を布教しはじめるのですよ。神の戦車兵は、そうした輩どもを駆逐し……」
「どうしたら帰してくれるの」
天使はその辺の石を取って投げつけたが、ザフキエルはひょいと躱した。
「剣を取って、戦ってください。この世界に、我が神を穢し、冒涜をまき散らした元凶がいます。そいつを倒せば、家に帰します」
「戦ってって……あたし、ただの引きこもりだよ? もっと、強い人に頼めよ」
「腕っぷしの強さなど関係ありません。すぐそばの十字架をごらんなさい」
不気味な十字架が、地面に不自然に突き立っている。十字のちょうど中心に、心臓のような形の炎がゆらゆら燃えていた。
「これがあなたの魂です。ここに保存しているため、あなたは死んでも、ここへ、死ぬ前の姿に戻ることができます」
「は……?」
「あなたは、死ねない、ということです。嬉しいでしょう」
ザフキエルの眼窩には光が見えない。天使は震えた。
「し、死ねない? 本当に、その、戦うまで、帰さないって、こと……?」
「はい。自殺未遂3回のお嬢さん。どうせいらない命なんでしょう? 神のために戦ってもらった方がマシというものです。さあ、この神剣「冒涜狩り」を取って戦いなさい」
柄に美しい宝石がはめ込まれ、赤い刃をした美しい片刃の曲剣が、真っ赤な鞘に包まれている。それからしばらく、剣を抱えたまま、天使は十字架の前に座り続けた。
「いつまでそうしているんです?」
八華天使は何日経ったか分からないくらい十字架の前に座り続けたが、この世界は黄昏のまま全く時間が経たない。お腹もすかず、喉も乾かず、眠くもトイレに行きたくもならない。
「まあ、私には時間がたっぷりありますから。世界が終わるまでそこで座り込んでるのもありだと思います」
「家に帰して!」
天使はザフキエルに剣を投げつけたが、ザフキエルはまたひょいと躱して、すぐに天使のそばに剣を置く。
どのくらい時間が経ったのか、どれほど泣いたり、わめいたり、懇願したりしたのか……。やがて、天使は剣を抜いて、立ち上がった。
「分かったよ……やらなきゃ、帰れないんでしょ」
「はい。帰しません」
「死なないんだよね?」
「死にます。正確には、死んでも戻れます」
「クソが」
鞘を腰につけ、剣を抜いた。最初殺された、神像を持っていたゾンビに剣を突き刺し、天使は駆けだした。
「う、うわ、うわ、人間を、食ってる」
街道沿いを走り、石造りの建物をした集落を見つけたが、現れたのは、腐り果て、ぶくぶくと太り、赤ん坊の顔をしたキューピッドだった。
「あー、うー」
と、赤ん坊のような声をして、人間の死体を食らっている。
「冒涜的でしょう。奴ら冒涜者はああして聖なるものを穢し、背徳をばらまき、この世界にいる人間達に絶望を与えているのです」
ザフキエルは淡々と言った。
「あなたの剣、冒涜狩りで斬れない敵はいない。存分に狩りなさい」
腹から込み上げるすっぱい胃液を堪えながら、天使は剣でその赤ん坊の脳天を叩き割った。
「その調子その調子」
ザフキエルはケラケラ笑っている。天使は身震いしながら、死体を乗り越えた。
────
「ぐああっ!!」
「ぎゃあああっ!!」
「ああああああっ!」
天使は何度も死に、何度も何度も泣き叫び続けた。頭を割られ、首を斬られ、丸ごと焼かれ、溺死し、石に潰され、剣山に全身を刺され、毒で苦しみ、高いところから落ち、目を抉られ、首を絞められ、ありとあらゆる死に方で殺された。死ぬ前に戻ることはできるが、死に際する苦痛は、全て余すところなく味わった。次第に、即死した方がマシだと思うようなことが、何度も起こった。
(ここが地獄なんだ。お母さんをあんなに泣かせたから、これがあたしへの罰なんだ)
666回死亡して、天使は十字架の前にへたりこんだ。
「もう、無理……。こんなこと繰り返してたら、頭がおかしくなる」
「大丈夫ですよ。あなたの正気は、我が神が保証します。あなたは狂いません」
ザフキエルは、真っ黒な瞳で、天使を覗き込んだ。
「あなたは狂わないし、死なないのです」
「悪魔!」
「うふふ。この神の車輪に向かって、悪魔、ですか。シャレが効いていていいじゃありませんか……そうですね、士気を上げることを教えてあげましょう。もしこの戦いを制することができたなら、お金を払います」
「……お金?」
しゃくりあげて泣いていた天使は、やっと顔を上げた。
「はい。日本人の方は、特にその褒美が一番好きなので」
「いくら?」
「三億円でどうです。あなた方日本人の生涯年収でしょう」
剣を杖にして、天使はよろよろと立ち上がった。
「嘘じゃねえだろうな」
「はは。神の車輪が嘘などつくと思いますか。人間の金くらい、天軍はいくらでも用意できます」
三億円。三億円あれば、人生が取り戻せる。五年も迷惑をかけた母に、楽をさせてやれる。高卒資格の勉強も心置きなくできるし、考えて使えば、一生働かなくてもいい。自分が引きこもりになったせいで、毎日泣いていた母に贅沢をさせてあげられる。
──ごめんね、天使ちゃん。ごめんね。
初めて学校に行けなくなった日。扉の向こうで、母は何度も何度も謝っていた。ベッドに横たわりながら、みじめで悔しくて、耳をふさぐしかなかった。
「金……金、金、金! やってやる……千でも、二千でもぶっ殺してやる!」
剣が軽くなった気がした。両手で剣を振るい、雄叫びを上げて、天使はさきほど殺されたばかりの冒涜者に挑みかかっていく。
実に16661回の再試行。死に戻っては死に、戻っては死に……。それでも、天使は諦めなかった。
「お母さんに絶対にもう一度会う! 金で、人生を取り戻す!」
妄執とも言うべき精神力で、天使はついに、この世界の冒涜者の王と称されていた巨人サザリエルを倒した。筋肉もなく、骨も細かった天使の身体は、均整が取れた美しい戦士の身体に変わっていた。
「素晴らしい。素晴らしい。期待通りです、お嬢さん。約束通り、すぐに現世に戻してさしあげます」
天使は巨人の腹に乗って、深々と溜息をついた。この巨人だけで、約100回は戦った。強かった。ザフキエルが言うには、天軍の裏切者だったとか言っていた。
「かえ、れるの……?」
「ええ。もちろんです。よく頑張りましたね。期待通りでした。お嬢さん……体感で言うならば、実に12年もの歳月をかけています。その間、16661回も死に戻り……それでも諦めずに戦った。素晴らしい精神力です。まさに神の兵士にふさわしい」
「あたし、12年も年取ったの」
「いえ。現世での時間は6時間程度でしょう」
天使の身体を、光が包む。
「それでは、現世にお戻しします。また会いに行きますので、お楽しみに」
気が付いた時には、いつもの家の部屋の中にいた。全て夢かと思ったが……手の豆、全身の筋肉、軽い身体、斬られた髪……全てが、夢ではないと物語っていた。傷は全て治っていたが、鍛えられた肉体は、今までのものと全く違う、と訴えている。
「……お腹、減った」
久しぶりに、本当に久しぶりに、お腹が減っていることに気づく。
財布を取って、太陽の光溢れる外へ出た。どこかで外食したい、と思った時に、真っ先にここが思い浮かんだ。
中学の時、定期テストの度、母が連れてきてくれた、町中華のお店。五年ぶりに、店に入った。
────
「現世に戻ってすぐ食事ができるなんて大したものです。あなた、やはり根っからの戦士なのですね」
町中華の店を出てすぐ、歩道のど真ん中にザフキエルがいた。八華天使はチッと舌打ちをして、そばを通り抜けた。
「引きこもり女に何言ってんだよ」
「会ったばかりのあなたは泣いたりわめいたりしかできないクソ女でしたが、今は立派な神の戦士。身体も戦士の肉体に変わったでしょう」
「……それより、約束の金は? まさか嘘じゃねえだろうな」
「それは大丈夫。お家に戻りましょう」
天使はジーンズのポケットに手を入れたまま、風や景色を楽しむようにゆっくり歩いた。悪臭もグロテスクな冒涜者も、病気でボロボロになった哀れな人間らもいない。皆清潔で、元気で、秩序がある。
「お母さまは?」
「パート。もうすぐ帰ってくるから、早くして。あたしも早く会いたいんだから」
公営団地の我が家に戻る。玄関すぐそば、一番手前の小さな部屋が、彼女の部屋だった。こざっぱりしているが、重いカーテンは閉めたきりで、学習机にPCとゲーミングモニタが置いてあった。
「まず一つ。ここに、あなたの国のお金で三億円があります」
ザフキエルは、どこからともなく金色のアタッシュケースを差し出した。
「あなたたち日本人の生涯稼げるお金の平均だと聞きました。これを受け取り、あなたは永遠に今日のことは忘れる」
「……本当に、三億円くれるの」
「もちろん。あなたはそれだけのことをしました。もう一つは」
ザフキエルは左手に乗っている白いカードを見せた。
「この白いカードを受け取る。このカードは、どのATMでもキャッシングすることができ、残高は無限です」
「ざ……残高、無限?」
「そう。それに、買い物の時にこれを読み取らせれば、限度額なしで買い物ができます。まあ、この世のお金で売っているものは、なんでも全て買えるということです」
「……信じられない」
「その代わり」
ザフキエルはずい、と、真っ白な顔を近づけた。
「このカードを選んだ場合、あなたはこれからも神の戦車兵|《メルカヴァリオン》として、あらゆる世界の冒涜者と戦ってもらいます。呼び出しは24時間昼夜を問わず、いつでも呼び出します。まあ、急ぎでない場合は、あなたが起きている時間に呼び出すくらいはしてあげますが」
白い顔で、ザフキエルはにやりと笑った。
「つまり、現世での贅沢三昧と引き換えに、あなたは神の戦士として生涯戦い続けるわけです。引退したいとか、辞めたいということは認めません。さあ、どちらにしますか?」
三億円もらって、今まで通りの生活に戻るか。白いカードをもらって、まだ戦い続けるか。すぐには決められなかった。
「……考えさせて」
「はい。あ、そうだ」
ザフキエルはひょい、と天使にカードを渡してきた。
「カードの効果を試してきたらいかがです。カードを選んだ後に、詐欺だとか話が違うなどと言われたくありませんからね」
「え……いいの?」
「構いませんよ。好きに使ってください」
「……5000兆円欲しいって言ったら、このカードで出せるの?」
「出せますが、そんな金個人口座に入れたら銀行から呼び出しがかかりますよ」
そのタイミングで、ちょうど母が帰ってくる音がした。
「ただいま~。天使ちゃん、ただいま、ね」
パタパタと扉越しに声をかけ、母は台所へ向かう。おやまあ、とザフキエルは笑った。
「あなた、天使という名前なのですか。素晴らしい。まさに神の戦士にふさわしい名前です」
「今知ったのかよ……このカード、本当になんでも買えて、いくらでもお金が沸いてくるんだろうな」
「はい。あ、カードが使えないお店ではさすがに効果がないですがね。あと日本の決まりじゃ、ATMで降ろせるお金は日に50万円までです」
「なんでそんなこと知ってんだ……とにかく、試していいの?」
「いいですよ、お好きなように。ただし、今晩だけです。明日になったら、答えを聞きに来ます。あと、三億を選んだ場合、今日使った額は引いときますからね」
「ケチだな」
ケラケラ笑って、ザフキエルはすっと消えた。
天使はカードを握って、そっと扉を開ける。
母と直接顔を合わせるのも、何日ぶりだろう。トイレが玄関のすぐ近くにあるのと、風呂は深夜に入るので、ほとんど顔も合わせなかった。あの世界で戦った時間は、全て総合すると12年とザフキエルが言っていたが、こっちの世界では……天使の肉体年齢は、あの日から一日と経っていないはずだった。
「お母さん」
台所に立っていた母は、包丁を落として、びっくりした顔で振り返った。
「て、天使ちゃん! どうしたの!? 具合、悪いの!?」
「ううん……あのさ……」
母はしばらく見ない間、ずいぶん老けこんでしまったように見えた。
──あたしのせいだ。天使は心から悔やみ、12年ぶりの懐かしい母の顔を見て、涙がこぼれてきた。
気が付いたら、痩せた母の身体を抱きしめていた。
「てっ、天使ちゃん! なにかあったの!?」
「ううん……お母さん。ご飯、一緒に食べに行かない?」
「えっ! ど、どうしたの!? まさか、また……死にたい、とか……」
「違うよ。えっと……宝くじに、当たったの。結構、高額で──」
狼狽する母をなんとかなだめ、天使は母と一緒に、最高級の焼き肉店にやって来た。
母は気を効かせて、個室を頼んでくれていたが……おぞましい冒険を終えた天使は、人間ごときには全くひるまなくなっている。
(あんなに怖かった、人の目がもうどーでもよくなってる。化け物どもに比べたら、皆小奇麗にしてるじゃないか)
天使はふっと笑った。
「こんな高いところ、本当に大丈夫? 天使ちゃん……」
「うん。お母さん」
天使は母に耳を近づけ、三億円、とつぶやいた。
「さっ……!!」
母は胸を抑えて、ぜえぜえと驚いていた。
「ほほほ、本当!? さっ、さっ」
「うん」
「まぁ……よかったねえ、きっと、神様が見ててくださったのね、可哀想な天使ちゃんのために」
天使はフッと顔をそむけた。確かに、神に見られたわけだ。ただし、可哀想な子だからではなく、何度死んでもいい命として。
「だから、好きなもの頼んで。ほら」
さきほど降ろして来た1万円の束を、母に見せた。50枚ある。
「わ、わあああ……。うそみたい……」
「だからお母さん。もう仕事辞めなよ。……あたしが、働くから」
「でも、あなた……大丈夫なの?」
「大丈夫。このお金を元手にして働くし、もういつまでも引きこもってられないし。お母さんに、死ぬほど迷惑、かけたから……」
涙が堪えきれなくなった。母はこんな自分でも、見捨てないでいてくれた。五年もの間ただ死ななかっただけの自分を、小言も言わず、信じてくれていた。
「天使ちゃんは良い子なんだから」
「天使ちゃんは絶対大丈夫」
ずっと、励ましてくれていて、それを重荷に感じることも多かった。それでも……母は、信じてくれていた。諦めずに。毎日食事を置いてくれたし、声をかけてくれた。
絶対帰る、と決めたのも、一万回死んでも諦めなかったのは、母にもう一度会いたかったからなんだ。
「……もっと、贅沢な暮らし、しなよ。私は、大丈夫、だから……」
「天使ちゃん……」
母も涙を流しながら、天使の頭を撫でてくれる。本当に本当に、久しぶりに、母の手を感じることができた。
「ごめん。焼肉だよ、お母さん。食べよう」
「そうね! お母さん、久しぶりにビール飲んじゃおっ」
「うん。一緒に飲もう」
「えっ! そっか、天使ちゃんも、もうお酒飲めるのよね」
「勝手に冷蔵庫から取って飲んだことあるよ」
「あら、そうだったの! 悪い子ね」
母も天使も、泣き笑いの顔のまま、食べたこともない高級焼肉を味わった。
「天使ちゃんと、こうしてお酒が飲めて、ご飯が食べられる日が来るなんて……」
「本当だね」
「なんだか、顔つきも変わってない? なんていうか、たくましくなったような……」
「……気のせいでしょ。お金持ってるから、気が大きくなってるだけだよ」
ご飯は美味かった。それよりも、母を初めてうれし泣きさせてやれた。それが、嬉しくてたまらなかった。
これから新しい家を買って、新しい家具や家電をそろえて、新しい生活をしようと、あれこれ母と計画するのは、とてつもなく楽しかった。新しい生活……それこそが、自分の欲しかったものだと、天使はそう思った。
「ずいぶん食べたわね、天使ちゃん! 最近、あんまり食事もしてなかったのに!」
母が目を丸くするほど、天使は確かによく食べた。中盛ご飯を二杯、上ネギタン塩を二人前、特選カルビを三人前、特選サーロインステーキを二人前、上ハラミを一人前、ホルモンを二人前、サラダを二皿、キムチを三皿と、自分の身体と思えないくらいよく食べた。
「なんだろ……なんか、すごくお腹が減って……それに、美味しかったから」
昼も醤油ラーメンにカツ丼を食べたが、この世のものとは思えないほど美味しかった。この健康的な身体のせいなのか、あるいは、これからは生きられる、と身体が訴えているせいなのか。
「ご飯って、こんなに美味しかったんだね。お母さん、また一緒に食べようね」
「うん! でも、天使ちゃん、これからは注意しないと。お金があるからって贅沢なもの食べ過ぎちゃったらすぐ太っちゃうからね」
「ふふ。そうだね」
頭を撫でられて、天使は顔を伏せながらも、とても嬉しかった。
──
翌日……天使が白いカードを取ると、ザフキエルはニヤリと笑った。
「いいのですね? あなたは神の戦車兵になる。これからも戦い続けることになります」
「ああ。三億じゃ足りねーよ。あたしはもっと美味しいものを食べたいし、お母さんに、ずっと贅沢させてあげたい。そのためならなんだってする……楽なもんさ。死にまくりながら、怪物をぶっ殺せばいいだけだろ」
「その通り。冒涜者のクソ共をぶっ殺せばいいだけの簡単なお仕事です。どうぞ、この無限のカードをお持ちなさい。現世で贅沢に暮らし、また神のため戦うのです」
「贅沢な暮らしはお母さんにさせる。あたしは……昨日食べたみたいな、美味しいご飯が食べられればそれでいい」
ザフキエルは首を傾げた。
「昨日のような、ラーメンやカツ丼が、ですか?」
「それと、お母さんと食べた焼肉。……美味しかった」
母が起きてくる前にコンビニで朝食を買ってこようと、天使は外へ出た。これから忙しくなる。ちゃんと腹に物を入れておかないと。
八華天使の奇妙な生活が始まった。
──
第2話 高級寿司と冒涜鯨
第3話 鉄板焼きと冒涜溶岩
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