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コウモリでもいいじゃないか 『21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学』

曖昧なものが好きだ。寄る瀬のないままでも、それはそれで漂うのもいい。

『21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学』
平川克美、ミシマ社、2018

「対立しているかのように見える二つの事象は、同じ一つのことが生み出したものであり、一方だけを見てわかったつもりになるというのは、ただ、「そのように見たい」という人間の性向を示しているだけで、〜ひとは円の亡霊にとり憑かれたいのです」(p207)

さだまらず楕円のように

一つを選択するということは、そのほかの選択肢全てを選択しないということだと思ってる。どうも寂しい気分になってしまう。

どうせ、ほかの選択ではないように生まれて生きてるのだから、あえて自らと思わずとも、と考えている。

例えば約束ごとも、その先に来る時間を固定されてしまうような気分になってしまう。だから、周りに申し訳もないが、その日その瞬間、唐突に予定をたてたい。その瞬間の自分がどの気分なのかわからないから、あそびのある状態に身を置いていたい。「ファッション」業界が半年先の「ファッション」をつくるのはモノとしての仕方なさはあるとしてもなんともむず痒く思える。

基本的に、自分を一個の結論だけに落ち着かせておきたくない性分がある。常に未確定のような揺らいだ場に身を置いておきたいような感覚。浮遊感。この本で言うところの楕円のように。学際教養学部で社会学を学んだが、この性分に合ってたとも思う。ラマ。互いに隔たりの中にいるのではなく、その際にこそなにかを見出したい。

自分をほどいて

含み多い本書から、全てを語らうのは難しい。今後どの本にあたってもそう思えてくるから、すこしでも拾い切ろうとする努力をしつつ、諦めをみせたい。

ただこれだけは、「自己責任」について。多く頷いた。そうそう、そういうことだった。「自己責任」について考えたい人には、『中動態の世界 意志と責任の考古学』(國分功一郎、医学書院、2017)もおすすめ。あわせて読めばきっと、と。

「自分に責任のないことを、自分の責任として引き受けるということ」(p217)

「自己」を拡張する。「メディア」的にものごとを見る視点。経営者を経て一つの会社を畳んだ著者の言葉としてこうもズシっとくる。「自分ごと」化の共感と「自己責任」との切り捨てが同時並行にあるこの世の中とはなんぞや。ふと、思っただけ。

自分をほどいて、友達へ、家族へ、隣の人へ、はてはてには、服などのものへ。広く「自己」として。

いつかまとめて書くが、自分には、自分以外だったものがたくさん混じってきた。同様に、親しい友人やあらゆる人やものにも、俺が混ざっている。そうであるなら、捉え方として、あいつも「俺」の一部だ。じゃあ、あいつも「俺」だ。「自己」だ。まあ、強く言いすぎてみただけなのでそんな気持ち悪がらないでほしいが、全くそうじゃないと言い切れないようなそんな感覚を持っています。

知識は“サイネージ”になるが、それだけに気をつけろ

去年は、いつぞやからずっと気になっていたマルセル・モース(Marcel Mauss、1872-1950)の『贈与論 他二篇』(マルセル・モース、森山工 訳、岩波書店、2014)をようやく読んだこともあり、「贈与」に関してのアンテナが特に敏感になっていた。

たとえば、『うしろめたさの人類学』(松村圭一郎、ミシマ社、2017)や、『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』(小倉ヒラク、木楽舎、2017)、『呪われた部分』(ジョルジュ・バタイユ、 酒井健 訳、筑摩書房、2018)...そしてこの『楕円幻想論』。

近い時期に読んだ本でも、モースに会うことが多かった気がする。たしかに「(文化)人類学」というキーワード自体に惹かれ買った本もあるし、自分が好きになるであろう本の匂いは近いものがあるはずなので、特別なことではないかもしれないが、それにしても多かった気がする。

本を読んで行くうち、知識を得るうちに、文章に“サイネージ”がついて光るようになる。モースを読んだことで、「モース」、「贈与」が光っていた。魔本。スッと内容に入っていける/頭に入ってくる。よくあることだと思う。

たぶんこの「モースによく会った」というのは、「私が応援行くと負けるんだよね~」とか「雨男」とかと同じことだと思う。あからさま印象的だったもの、こと、場面だけがやたらと浮かび上がりやすいだけで、それ以外のパターンがすっぽりと抜け落ちてみえなくなる。

現れる“サイネージ”は理解の加速させる大切なもので、それがあるだけで安心しすぎてしまう瞬間がある。陥りやすいミスは、その“サイネージ”があることだけで安心しきって無批判になることだと思う。“サイネージ”を見たときに、そのことを意識できるようにと、気を引き締める。そして、同時に自分からすっぽりと抜けて見えるものたちにも目をかける。それを忘れない。

とはいえ、生きていくうちに、“サイネージ”が灯っていく様は格別だ。歓楽街のように、いよいよ明るくなっていく。まだ新宿、渋谷とは言えないが、それなりに明大前くらいにはなってきただろう。

コウモリでもいいじゃないか

また、逸れた。最初に戻って最後へと。

良く言えば柔軟、悪く言えばいくじなし。1つ核として持つことは強い。友人の宗教家を見て切に思う。それとは異なるとして、世の中人を動かしているのは極論の断言だ。かっこいいから。こうも突き進む強い言葉に惹かれるのは人間のサガで、自分という無根拠性からくる隣の芝生なのだろう。

「ひきょうなコウモリ」と言う話は、嘘ばっかついてたらあかんよという含蓄のある話だとは思う。が、コウモリの言い分も嘘というほど嘘じゃないだろう。嘘はそりゃもちろんいけないよ。このコウモリはまずかった。では即ち、鳥にでも獣にでもなれば、というのも暴論だろう。結論を急ぐべきじゃない。

磁石には、ついぞ、SとNが同時にある。科学的にどこかには存在しているのは知っているが、よほどのことでないと生み出せない単極の磁石のようなものに、なんだか末恐ろしさを感じる。極論はそんな単極磁石のようなものだ。そして、極論は怪獣みたいなものだ。もう一方を踏み潰す。モキアン。

どの色ともつかないグラデーションのその間に、こそだろう。一つだけを持つかっこよさは痛いほど知っている。でも、コウモリはコウモリとしてあっても、自分は別に悪いとは思えない。コウモリは鳥でもあるし、獣でもあったはずだ。わかりやすい分別をつけず、その一つを複雑なままにしておいてもいいだろう。

コウモリでもいいじゃないか。

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