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《雑想》人も暮らしも、すべて巡り巡っていく

僕の所属する団体NPO法人ひだまりの丘では、中高生から20代の女性の居場所事業「meguru house」という居場所事業を運営している。中高生から成人に至るまで女性特有の抱える悩みはたくさんあり、そうした悩みにどのように関わっていくかを日々奮闘している。とあることでこの活動について話すことがあったので、ここに記事として残しておこうと思います。

▼meguruhouse ~中学生以上女の子の居場所〜

担当者の久野さんという元児童養護施設職員で保育士であり、彼女自身も性やパートナーとの悩みを抱えた経験のある一人だ。その彼女が居場所事業「meguru house」と銘打って一昨年から居場所を定期的に開放し、食事や雑談する場を設けている。(以下instagram)ちなみにロゴは僕が描いていまして、話は割愛しますが、「いろんな人と出逢い、おいしいごはんをたべて、縁が巡っていきますように。」というコンセプトで描きました。

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久野さんは口数は少ない女性だが、いつもよく頭の中で何か考えているような人で、明るく振る舞い、よく食べ、よく笑う女性だ。喜怒哀楽がしっかりあって羨ましい。彼女の姿勢や人柄を慕って、先日もイベントがあり訪れたのですが、たくさんの女性や若者が訪れていました。

久野さんと話すと、相談してくれる一部の若者の話だけでもいろんな難しさを抱えているのが伝わってくる。性の問題やトラブルからはじまりパートナーや異性、親などとの関係性など、ひとつの悩みに本人にとって無数の問題や障害が絡み合っている感覚があると。ここからは僕の心証というか、自分の体験や児童虐待に対して活動してきて感じる。人間と人間の関係性から生じる問題や現象とつながっていく。それらを下記に記したい。
 

ああいえば、
こうなる・・・だからこうしておこう

家庭の中や身近な生育背景の中で、抑圧を受けたり、対等な関係性を形成できない環境下であれば、ありのままの自分を受け入れてもらえない孤独感や無力感、あるいは自己否定などに陥ることも当然だと言えるし、「言ってもダメだろう」「相談したところで意味ない」「ああいえば、こうなる・・・だからこうしておこう」など諦めてしまうのも無理はなく、日常で親、パートナーなど身近な人間との関係性が非寛容的、固定的、脅迫的なものであるほど、第三者また実際によくわからない人へ心中を表現したり、「相談をする」ということが、そもそも選択肢としてあがることはないだろう。相談という行為はどこか他人事で、自分たちの傷や今感じる不安を拭い去ってはくれないと醒めているのではないだろうか。現に僕はずっと醒めていたし、誰か違う人のことのように自分を語っていたと思う。

傷つかないようにするために


相談することは、何かしら新たな問題を起こす行為につながるのではないかと思い、高い壁だと見上げ、仮に相談窓口へ知っていても利用しない...ということも想像できる。相談または語るという行為は現に僕もずっと逃げてきた。いや、逃げたつもりもなかった。嘘をつく気もなかった。それとないことを言うことに徹したのだ。誰も怒ったり悲しまないように、傷つかないようにするために。それは後になって分かったのがかなり自分を苦しめることになった。誰かに心中を語ろうとすると、胃の奥や手足が痺れ、脂汗が吹き出し、息ができなくなった。僕が封じ込めたのには、恐怖や不安だけではなく、「自分の行いで自他共にもう傷付いてはいけない」とする純粋さ、怒りと、悲しみと諦めとその他一切が僕を鎖に繋いだんだろう。あるいは自分から檻の中へ入って鍵を閉め、鍵だけ外に渡したような気分だった。

その子のもつ物語と僕の願い。


ただ、僕の経験や所感と、全ての当事者と繋がるわけではないから、相談・支援対象像のようなものも作る必要はないと思うが、心中を語ることがいかに難しいことか、精神的自立や心のケア(そうした物語を持つこと)の難しさをどうか知って欲しいと願ってこの文章を書いている。そしてどうか、そこに、その事業に費用対効果や合理的かどうか。評価をするためのあらゆる手法、採算性など数値やお金で覆うのではなく、あるいはあらゆる対象者へ実用性や万能性があるとか、商品化するのでもなく、一人一人の態度や言葉、物語を丁寧に見聞きしてほしいと思う。そしてそういった計り得ない何かを地域や社会で守っていきたいと僕は強く願っている。そしてその価値を説明できる、守れる大人になりたい。

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「ここでなら話ができる。」


以前、一人の女性が僕にいった。「学校でも家でもうまく話せないけど、ここでは話せる」と。僕もそうだなと思った。他のスタッフも共感者で同じようにここの場所を大切にしている。

meguru houseに来て、さまざまな物語を抱えた人たちが久野さんに会いに来る。ご飯をたべたり、お話しをしたり、ただただ一緒に過ごす。理由はいったい何なのか。ただ、僕も久野さんと出会ってもう4,5年ほど経つが彼女の立ち振舞いよって、悩みやトラウマを抱える人たちがもつ「他者への認識」が僕は変わると思っている。相談しなくても、できなくてもいいのだ。ただ行きたいから行く。「ここでなら話ができる。」と市外から来ている女性もいた。僕も久野さんへなら当時きっと話せたと思う。

これからも大事にしたいこと。

久野さんに感化されて、いろんな人へ話すきっかけを僕がいただいて、これは僕自身への戒めでもあり、これからのmeguru houseだけではなく、子はたからプロジェクトなど活動への想いでもある。


①彼女たちが抱えている「人には言えない、あるいは難しいと思う感覚や状況」がまず何かの評価の対象から外れ、何かの価値観に引き込まれないよう守り、ありのままの現状として受け入れられることを補償すること。

②本人が今の段階・状況でどのようにしていきたいのか意思表示できる、あるいはコミュニケーションが継続できる場づくりが必要だということ。それに伴う人間関係の構築ができるだけ補償されること。

③私たちは相談する窓口として開放するのではなく、支援を求める先でもなく、解決者、救済者として立つのではなく、彼女たちが今後出会う他者と健全的・対等な関係を作っていける「きっかけ」の場所として立つ(為る)こと。そのためにできるだけの資源をできるかぎり投入すること。

さいごに

今日たくさんの女性や若者がmeguruhouseに訪れている。人も暮らしも、すべて縁として巡り巡っていく。暮らしの延長線上に当事者の抱える「本人の難しさ」を共有する場として立ち、本人が身体と心が望む方向へ舵をとれるようにしていけるような寄り添い方をできる場として、何か抜本的な解決や本人へ行動を求めるのではなく、彼女たちが「話してよかった」「なんだか元気になった」「こんな人がいるんだ。」「meguruhouseのご飯おいしいな」「またいきたいな」など感じることひとつひとつを肯定し、ひとりひとりの呼吸に合わせ、よく聴き、感じながら活動していきたいと思っている。

サポートを糧にもっと面白く楽しくなるような創作や活動に変えていきます!(子育て支援・児童虐待予防、子どもに関わる分野での活動資金やえほんなど創作活動に当てていきます。)