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「人生の税金」という考え方の危うさ及び前提となる考え

 先日の松葉舎しょうようしゃの授業において、私は甲野善紀先生から聞いた「人生の税金」の話を受けて考えたことを話しました。

 私の話を聞いた松葉舎のみなさんからの反応で、より「人生の税金」についての考えを深めることができたので言語化してみます。

 まず、私が人生の税金の話についての気づきを話した時、塾生の一人から一つの懸念が示されました。それは、私が自分の人生において苦しみを受けた時に「これは人生の税金だ」と感じることは良いが、それを他人に当てはめて考えるのは危うく思える、とのことでした。
 「他人に当てはめて考える」というのは、私が「人生の税金」の話の中で、自分の人生においてだけでなく、私以外の苦しんでいる人に対して、それを「他の人が受けるはずだった苦しみを代わりに受けている」と当てはめていたことについての懸念でした。
 当該の記事では以下のように書きました。

 また、現代日本で苦しんでいる多くの人、苦しみのあまり自殺をしようとしたり、実際に自殺してしまっているような非常な苦しみの渦中にいる人に対しても敬意が生じます。その方々は、私たちが受けるべき苦しみを代わりに受けてくださっていると言えるのです。社会的に成功して幸せな人も、何もかも失敗して不幸の渦中にいる人も、俯瞰して眺めればどちらもそれぞれのお役目・役割であり、そこに貴賤・尊卑の差はないといえます。いやむしろ、人の幸せのために苦しみを肩代わりしてくださっている人の方が尊いお役目と言えるかもしれません。

note記事 人生の税金

 その方が感じられた「危うさ」は、私が「苦しんでいる人」というとき、その方々をパッケージ化して捉えているように思えたからとのことでした。つまり、苦しんでいる一人一人を見ているのでなく、その人たちをまとめて十把一絡げに「苦しんでいる人」と見なしているように感じられた、ということでした。言い換えると私が見ているのが苦しんでいる人たち一人一人ではなく、「苦しんでいる人たち」という概念になっているのではないか、ということだと思います。

 これは指摘されて確かにそうだな、危険だな、と思いました。
 というのも、現在苦しみを抱えている方々は、その苦しみの内容も、その苦しみを受けるに至った経緯も苦しみが生じる原因も千差万別なので、それをまとめて「苦しんでいる人」と言えるものではありません。それなのにそれらを「苦しみ」と一言で片づけてしまうと、その方々の直面している困難をきちんと見ることができず、その方々の現実の苦しみをないがしろにしてしまうことにつながると思ったからです。
 また、苦しみの生じる原因は様々なのに、それを「誰かの税金の肩代わり」という単一の原因だと捉えてしまうのは、複雑な現実を単純化して捉えてしまうことにつながり、仏教の否定する「一因多果」の考えに堕してしまうようにも思いました。
 
 その指摘をしてくださった塾生の方からは、人生の税金の考え方について、私自身が自分の中でもっと熟していく必要があるのではないか、と言っていただきました。その言葉も受けて、短絡的な結びつけを改めようと思えました。


 また、塾長の江本さんからは、「人生の税金」という考え方を受け入れる前提には、二つの姿勢が感じられる、との指摘がありました。
 一つは「自分の人生を自分単体で閉じ込めていない」という姿勢です。
 
 人生の税金の考え方において、「私が今受けている苦難は誰かの税金の肩代わりだ」と受け止める時、私の人生で起きていることは私の中だけで完結していません。同様に、他の人の人生も他の人の中だけで完結していません。
 現代日本において、一般的には自分の人生において起きることは自分単体で完結する、と考えられているので、この点は特殊と言える姿勢かも知れないと思いました。

 少し省察してみると、自分の人生を自分単体で閉じ込めない姿勢は、仏教の学習と実践で培われたものかもしれないと気づきました。
 仏教においては「私」というものはいないという「無我」の教えが説かれます。「無我」の内容を正確に伝えるのは私では力量不足ですが、今回の文脈に即して表現するなら「自分の中に生じる様々なもの(意志・感情・認識・感覚など)は様々な外的・内的要因によって結果として生じるものであり、それ単体で生じるものでは無い」ということになるでしょうか。
 つまり、身体や心と呼んでいるものもそれ単体で存在しておらず、多くの環境や条件によってたまたま成り立って生じているものであり、それらは「私の身体」や「私の心」と言えるものでは無い、だから「私」というのもそもそも成り立たない、ということです。
 こうした教えが学習や実践の中で受け入れられてきたので、「私の人生において生じている苦しみが、私の人生の外にも原因(誰かの税金の肩代わり)があるかもしれない」という人生の税金の考え方を抵抗なく受け入れることができたのだと思います。

 江本さんからのもう一つの指摘は、「収益だけを得て生きていけない」「自分の人生のプラスだけを求めて生きていけない」という前提がある、というものでした。
 これは確かにその通りで、人生の税金とは「人の人生は良いことが起きればそれを平均化するように悪いことが起きる」という現象のことを指しますので、江本さんの指摘の通りだと思いました。
 
 これも人生において自分にとって良いことばかりが起きてほしい、と考えるのが現代日本において一般的な考え方だと思うので、特殊な考え(前提)かもしれないと思いました。
 
 私がこうした考えを前提として受け入れられるのは、環境改善活動に携わっているからかもしれないと思います。
 現代社会においては、多くの人が科学技術の恩恵を受けています。当然私も受けています。アスファルト舗装された道路があるから車で快適に移動することができ、上水道が完備されているから蛇口をひねれば飲める水が得られ、日本中に送電線の鉄塔が立っているからどこでも電気が使えます。
 しかし、土砂災害が起きている現場や山の荒れている現場に入ると、それらの現場における環境悪化の原因はそうした人間の営みの結果であることが多いです。多いです、というより、私が入ったことのある現場は人間が行ったことの原因で悪化したものしかありませんでした。
 人間が良かれと思って人々の暮らしを良くするためにしていることが、知らず自然環境を悪化させているという現状を目の当たりにして、かつ改善活動を通して悪化している自然環境に触れることによって、体感として「人がプラスを得ていることで他の命にマイナスを背負わせている」と感じられます。
 こうした実感から、江本さんの指摘する「自分の人生のプラスだけを求めて生きていけない」という前提が私の中に培われてきたのかと思います。
 つまり、生命全体で考えた時「誰か(人類)がプラスになることが、他の誰か(人類以外の動植物)にとってのマイナスになる」「誰か(人類)の負うべき税金を他の誰か(動植物)が代わりに負っている」と感じられるのです。

 

 人生の税金という考え方は私にとって深めたい命題だったので、私の捉え方の未熟な点や前提となっている姿勢などを指摘してもらえたのは非常に勉強になりました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!