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人生の税金

 先日、甲野善紀先生の講座に参加しました。その中で聞いたお話の「人生の税金」という話が心に響きました。

 私は何度か甲野先生から「人生の税金」についての話は聞いたことがありました。
 「人生の税金」という名前は甲野先生が名付けたものなのかどうかは分かりませんが、簡単に言うと「人の人生は良いことが起きればそれを平均化するように悪いことが起きる」という現象です。
 その時の講座で甲野先生が挙げた例としては、整体協会の創設者で野口整体の創始者の野口晴哉のぐちはるちかの逸話がありました。

 野口晴哉は超人的な逸話の多い人で、多くの治療困難な人を治療した人物です。しかしたくさんの偉業を為した彼にもやはり「人生の税金」はかかっていたそうです。「人生の税金」はその人物本人か、もしくはその人物の一番身近な人にかかってしまう、と甲野先生は言います。
 野口晴哉の人生の税金は娘のヒノにかかります。何人かの男子の後に生まれた娘のヒノは7歳で亡くなります。転んで後頭部の急所を打ってしまい、1週間苦しんで亡くなったといいます。野口晴哉は愛娘を治療しようとしますが、上手くいかなかったそうです(娘のヒノが無意識に治療されることを拒んだと言われます)。野口晴哉は愛娘を失って「世界から色彩が消えて白黒になった」と後に述懐するほどの悲嘆を味わいます。
 甲野先生によれば、野口晴哉の傑出した才能の「税金」がそのような形で表れたといいます。

 また、もう一つ信じ難い逸話として、「大本おおもと」という宗教団体の逸話も聞きました。
 神道系の明治新宗教であった「大本おおもと」は昭和35年の時点で100万人から300万人もの信者数を誇った大宗教団体でした。ただ、日本政府の国家神道と教義上対立したため、治安維持法が適用されて大弾圧を受けました。
 全国にあった大本の教団施設は強制的に破壊、撤去させられ、大本の最高指導者であった出口王仁三郎でぐちおにさぶろう他何十人もの幹部が検挙され、拘禁されました。そして6年間の拘禁の中でその内20名近くが亡くなることになります。
 裁判は最終的には治安維持法違反という点については無罪となり、不敬罪のみ適応となり釈放となるのですが、長年の弾圧の結果、大本は大きく勢力を失います。

 この内容だけ見ると、大本にとって悲劇でしかない出来事ですが、驚くべきことに出口 王仁三郎でぐち おにさぶろうはこの事件を予見しており、そしてこの大弾圧を甘んじて受けようとしていたといいます。
 なぜ出口 王仁三郎でぐち おにさぶろうはこの大弾圧を受け入れたのか?それは、日本国に今後起きることになる悲劇を大本が引き受けることにより、日本国の悲劇を小さくしようとしたためです。日本国の悲劇とは第二次世界大戦の敗戦による占領軍による統治からサンフランシスコ講和条約に至るまでの日本の苦難です。甲野先生の用語を借りるとするなら、日本という国が受けるべき「税金」の一部を大本が肩代わりした、ということになります。

 甲野先生の言う「人生の税金」という考え方は科学的な考えとは言えないでしょう。大本に起きた大弾圧にしても、それが日本国に起きる悲劇(税金)の肩代わりである、と言っても多くの人にとって納得できる話では無いと思います。
 しかし、私にはそれがリアリティをもって受け止められました。
 一つには「大地の母」という大本の開祖 出口 直でぐち なおの半生を描いた実録小説を読んでいたことが影響しているでしょう。その小説では摩訶不思議なことが起きつつも、非常なリアリティをもって創設期の大本の様子が活写されており、そこに出口王仁三郎も登場するため、私が「出口王仁三郎ならそうするだろう」と思えた、ということがあります。

 もう一つの理由としては、私が高森草庵でキリスト教に親しんでことが挙げられます。
 どういうことかというと、出口王仁三郎が大本の弾圧をもって日本国に起きる悲劇を肩代わりしようとした、という話は、イエス・キリストが全人類の罪(原罪)を肩代わりするために、精神的・肉体的・宗教的苦難を一身に受け、ゴルゴタの丘によって磔にかかった逸話と相似形を成すからです。
 イエス・キリストが人類への愛のために、人類が負っていた罪(原罪)を代わりに背負い、罰を受けた、という物語がキリスト教の根本にあり、その物語をまことに信じている方々の集いで生活させていただいたため、出口王仁三郎が日本国に起きる悲劇を代わりに受けた、という論理を抵抗なく受け入れることができたのでした。

 この二つの理由により、私にとって大本の逸話は非常なリアリティをもって迫ってきました。

 なお、私は甲野先生の言う「人生の税金」理論というのが、世の中の真理であるかどうかは分かりません。というか、「人生の税金」と言う理屈が本当に世の中の法則であるかどうかには私は興味がありません。私が興味があるのは、「人生の税金」という考え方が、人が生きる上で有用な考えであるかどうか、という点のみです。
 そして、私においては有用な考え方であり、かつ自然に受け入れられる考えであったので、私の人生において大いに採用しようと思ったのでした。

 もし大本の弾圧が日本の悲劇を肩代わりしたものであったり、イエス・キリストの受難が人類の罪を肩代わりしたものであったとするなら、私が今苦しんでいることも世の中の誰かの苦しみの肩代わりかもしれない、と思えたのです。
 もし私の苦しみが誰かの人生の税金の肩代わりであるなら、私は自分の苦しみにとても前向きに向き合える、と思えました。なぜなら、私が苦しんでいることは無意味ではなく、誰かのためになっている、と思えるからです。

 私にとって最も辛いのは、自分が生きていることが無意味である、無価値である、と思うことです。
 例えば現代日本で多くの人が漠然と受け入れている「人生の幸・不幸はその人の努力の結果だ、その人の責任だ」という考え方だと、自分が今不幸で苦しんでいるのは、自分の努力や能力が低いという原因の結果であり、その人の責任となります。言い方を変えれば、その人が悪いからその人の人生は不幸なのだ、という結論になります。
 しかし、その人の人生の幸・不幸はその人の努力だけで決まるのではなく、誰かが受けるべき苦しみを代わりに受けている結果なのだ、ということになれば、その人の能力が低いというのが原因でなく、その人は苦しむお役目・役割を担っているだけだ、となります。むしろ、その人は人の苦しみを代わりに背負ってくださる尊い役割を引き受けてくださっている人、となります。

 繰り返しますが、私は「人生の税金」という考え方が本当に正しいかどうかは分かりませんし、正しいかどうかに興味はありません。しかし、「人生の税金」という考え方を採用することにより、「私が苦しんでいるのは一つの役割なんだ。自分が果たすべき人生のお役目なんだ」と思って自分の苦しみを前向きに受け入れることができるなら、「人生の税金」という考え方はその人にとって有用で有益な考え方だといえます。そして、その人にとって有用な考え方であるなら、その人にとっては「真実の」教えだ、と言えると思います。

 「人生の税金」という考え方を受け入れるなら、例え今後私の人生が失敗続きで苦しみの連続で、最後は惨めに野垂れ死ぬことになったとしても、私は自分の人生を納得して終えることができると思います。
 また、現代日本で苦しんでいる多くの人、苦しみのあまり自殺をしようとしたり、実際に自殺してしまっているような非常な苦しみの渦中にいる人に対しても敬意が生じます。その方々は、私たちが受けるべき苦しみを代わりに受けてくださっていると言えるのです。社会的に成功して幸せな人も、何もかも失敗して不幸の渦中にいる人も、俯瞰して眺めればどちらもそれぞれのお役目・役割であり、そこに貴賤きせん尊卑そんぴの差はないといえます。いやむしろ、人の幸せのために苦しみを肩代わりしてくださっている人の方が尊いお役目と言えるかもしれません。
 そのように考えられる「人生の税金」という考え方は私にとってたいへん有用であり、採用するに足る考え方であるといえます。


 甲野先生から何度か聞いたことのあった「人生の税金」という考え方が今まで以上に腑に落ち、人生の苦しみの彩りを変えられた感じがしたことに感動を覚えました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!