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利己を突き抜けた先の利他

 やそらさんとのスペースで出た話で、「利己を突き詰めた先にある利他」というテーマがありました。

 その話が出たのは、やそらさんが利己を突き詰めた時、自分と他者の境が曖昧になり、結果として他者への利益にもなっているという在り方を目指している、ということを話された時でした。
 私はこの話を聴いた時、すぐさま思い出したのは甲野善紀先生でした。
 というのも、私にとって甲野先生の在り方が「利己を突き詰めた先にある利他」という振る舞いになっていると思えたからです。

 甲野先生は講習会をたびたび開いていらっしゃいますが、基本的に甲野先生御自身の技を教えようとはされません。いや、正確には教えてくださるのですが、その説明が抽象的過ぎたり、「言葉の意味は分かるけどそれどうやってやるの?」みたいなことが多すぎて、受講者が技を習得することは稀です。
 「どうゆうこと?」と思った人はこの動画を見てください。この動画で言われていることができれば、解説されている技はできますが、甲野先生が簡単に言うほど楽な技ではありません。それでもこれはかなりやりやすい部類の技だと思います。


 では、受講者は技も習得できないのになぜ甲野先生の講習会に行くのでしょうか?
 中にはかなりセンスがあって、甲野先生の技を習得できている方もいますが、多くの方は甲野先生の技そのものより、甲野先生の佇まいや技を習得していく過程で得られた知見を学ぼうとされていると思います。
 また、自分の関心のある分野に応用するため、甲野先生に質問したくて来る方もいます。
 余談ですが、そういう関心からある音楽家の方が甲野先生の講習会にいらっしゃり、その縁で音楽家のための講座というのが開かれたりしています。


 甲野先生自身の講習会を開くモチベーションは何でしょうか?
 甲野先生がよく言われることですが、甲野先生は講習会で技を披露した時、自分の技が効かない受講生がいると非常に面白くなるそうです。甲野先生は自分の技をより良くしたいと常に思われているので、技が効かない相手が見つかると、どうして技が効かないのか、技が効くようになるにはどう工夫すればいいか、そういうことに夢中になるのでとても面白くなるのでしょう。要するに、講習会でも自分の技の稽古をしているのです。
 甲野先生は自分の技が未熟であり、目指す高みに比べて非常に稚拙だと本気で思っているので、自分の技を後世に伝えようという気持ちはありません。誰かの何かの参考になるなら提供することはあるでしょうが、自分の今の技を継承して欲しいとは露とも思っていないはずです。
 なので甲野先生が講習会を開く一番のモチベーションは自身の稽古であり、自分の技がより良くなるためのきっかけを探すためだと思います。

 これだけだと完全に利己的な理由なのですが、甲野先生が講習会を開く理由はもう一つあります。
 これも御自身がよくおっしゃることですが、甲野先生は自分一人が良い思いをすると後でその良い思いの清算をされるようにしっぺ返しが来る、という思想をお持ちです。日本の昔話で欲をかいた登場人物が後々手酷い目にあう寓話に通底する思想です(舌切り雀の欲張り婆さんや花咲か爺の欲張り夫婦など)。甲野先生はこれを「人生の税金」と表現されています。甲野先生としてはこの「人生の税金」の支払いのために講習会を開いているという理由もあるそうです。
 どういうことかと言うと、自分が技を研究して得た知見や技術を広く世に公開することで、自分が益を享受するだけではなく、その得た益を人々に還元することで、自分が良い思いをしていることのバランスをとる機能を期待されていると言うことです。甲野先生なりの利他行と言えるかもしれません。

 甲野先生のこうした態度は、私にはやそらさんがいうところの「利己を突き詰めた先にある利他」という行いに当たると思いました。甲野先生はわざわざ利他に当たる行いをするわけではなく、自分の稽古にもなる講習会というものを開くことで、結果として利他行を行っているからです。初めから「世のためになることをしよう!」というような利他行とは異なります。
 そしてこの態度は、自分の気持ちに誤魔化しをしないで自然に利他行につながる非常に優れたやり方だと思います。

 これもやそらさんとの話で出ましたが、初めから「人のために!」と言ってする行動は自分に嘘をついてしまいがちで、最後のところで頑張れなくなります。「人のために!」と言いつつ、その実「人から褒められたい」とか「人のためになることしてる俺カッコいい」とかいう気持ちが裏に潜んでいることが多いからです。純粋に人のために行動しているわけではないので、行動に迷いが生じるのです。
 しかし、初めから「自分のため」と思って行動するなら、その行動は自分の気持ちに嘘をついていないので、最後まで頑張れます。そしてそれが結果的に人のためにもなっているなら、その行いは本当に人のためになるでしょう。

 非常に不遜ながら、私がnoteで記事を書いているのも、こうした甲野先生の態度を真似ているところがあります。
 私がnoteを書いている理由は私自身のためですが、私が書いている記事が誰かの何かの参考になれば良いなと思って書いているという理由もあります。
 私は自分の思考を言語化してnoteを書いていますが、それは私が人生において大事だと思っている「自分の心に向き合うこと」をある側面から可視化した内容です。
 私自身が内向的、内省的な性格であるという事情もあるでしょうが、人生において自分自身の心と向き合うことは大事なことだと私は思っています。そのため私は内観法を学びに行ったり、仏教の瞑想法を学んだりしました。それらの行法が自分自身の心と向き合うのに適した実践法だと思ったからです。
 そこで得た気づきは、必ずしも全てが言葉で表現できるものでは無いですが、言葉で表現できる範囲の内容でも誰かの気づきの助けになるかもしれないと思い、日々の思考を言語化してnoteにしています。
 私としては最終的にはそれらの実践法を読んだ方々に実際にやっていただきたいと思っているので、私のnoteを読んで「お、こんな風に考えられるようになるのは面白そうだな、私も実践をやってみよう」と思ってくださる方が現れたら良いなという思いもあります。

 つまり、「noteを書くのは主に自分自身のためだけど、その自分自身のための記事が誰かの役に立ってくれたら嬉しい」という気持ちでnoteをやっており、それは私なりに甲野先生の講習会での態度を模倣するものです。
 それがうまくいっているかどうかは、読者の皆様にしか判断できないことですが。


 note以外でも私の人生自体が「利己を突き詰めた先の利他」になったら最善だなと思いつつも、高望みしすぎると足元が疎かになって転んでしまうので、できる範囲でやっていきたいと思います。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!