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「私」という現象

 「身体は借り物」という感覚がさらに発展したのか、今度は「『私』は現象だ」という感覚が生じることが出てきました。

 ここでいう現象というのは、例えば発火現象などと同じように自然現象という意味です。
 以前の記事で「私」というものを仮に「心」と呼びました。以前は「こころ」を身体を動かしている主体として想定しましたが、最近はその「主体としてのわたし」というのも感覚的にそぐわなくなってきました。一番しっくりくるのは、「心という現象」という呼び方です。

 なお、私が「心」という言葉で表しているものについてですが、それは「感覚」「感情」「意志」「思考」「認識」といった心的活動全般です。思考や意志などの意識的作用だけでなく、感覚や認識といった無意識的作用も含めて「心」と呼んでいます。
 
 では、その「心」を私は以前どのように捉えており、その捉え方がどのように変化していったのかを言語化してみます。

 以前の記事で「身体を借りている主体」として「心」を想定していたように、私は「わたし」は主体として捉えていました。自由に判断し、行動できる主体です。
 近代社会においても「自由意志のある主体(個人)」というものを想定するからこそ、「人権」や「自由」という概念が作られ、浸透しています。
 私も長らくそのようにわたしを主体として捉えてきたのですが、最近はそこに違和感を感じるようになりました。というのも、わたしは全くもって自由ではないからです。自由ではなく、勝手に生じて勝手に消えるものであるという感覚をわたしに対して感じます。
 勝手に生じて勝手に消えるものに対して「主体」という手触りを感じることは難しいでしょう。

 「心が不自由である」という点について、例えば感覚について例を挙げると以下のようになります。

 私たちは感覚器官を用いて、視覚や聴覚や触覚といったものを感じています。この感覚は、感覚器官がそれらに触れたら自動的に生じるものです。見ようとしなくても目を開いていれば勝手に視覚情報は入ってきますし、音が発生すれば自動的に音が聴こえてしまいます。不快感を覚えるグロテスクな映像も、耳障りな音も、感じたくないと思ってもそれらの情報が感覚器官(目や耳)に触れると自動的に感じてしまいます。
 もちろん、目を瞑ったり耳を塞げば感覚をある程度遮断できます。また、自動的に感じる、とはいっても本当はその感覚に焦点を合わせなければ感覚を感じることは出来ません。感覚に焦点が合っていない、例えば眠っていたり気を失っている時は感覚を感じることはありません。
 しかし、「心地よい感覚を味わいたい」と思っても自由に味わえるわけでもなく、「不快な感覚は全部遮断したい」と思ってもうっかりそういう情報(感覚)に触れてしまえばその不快な感覚を味わう羽目になります。
 感覚に焦点が合わなければ感じることはないことは事実ですが、どの感覚に焦点を合わせるかを自由に切り替えることは(常人には)できません。
 その事実から、「感覚」というのは全く自由ではなく、むしろとても不自由で、私が望もうが望むまいが生じてくるものであると私には感じられます。

 また、「意志」についても同様に不自由であると感じます。
 「○○をしたい」という意志、欲求は自分で生じさせることができません。勝手に生じてきます。
 私は確定申告をしないといけなかったのに、3月に入るまで書類作成が面倒で先延ばしにしていました。もし私が自分の意志を自由に操作でき、「確定申告の書類を作成したい!」という意志を自分で生じさせることができたなら、期限より遥かに早く書類を作成し、提出を済ませていたはずですが、実際は最後まで面倒で、「書類作成したくないな~」と思っていました。
 「○○したい」あるいは「○○したくない」という意志、欲求は勝手に生じて勝手に消えていく、とても不自由なものであるという感覚が強くあります。

 他の「感情」や「認識」などについて具体例は挙げませんが、上記と同様に全く自由ではなく、「勝手に生じて勝手に消えていく」という感覚を覚えています。

 そのように私が「心」と呼ぶものは全く自由ではなく、勝手に生じて勝手に消えていくものだ、という感覚が私にはあります。常にそこにあると感じられるものや連続性が確保されているものに対しては、それに対して何かしらの確かさ、実在を感じることができますが、勝手に生じて勝手に消えるものに対しては実在を感じることは難しいです。
 「勝手に生じて勝手に消えるもの」に対して、私が一番しっくりする表現は「現象」です。

 さて、「常にそこにある」といえないものを現象と呼ぶとするなら、心だけでなく身体も「現象である」と言えるかもしれません。
 人間の身体は細胞が日々生まれたり死んだりして入れ替わっていて、半年で身体全ての細胞が入れ替わると言われています。
 物質面で見ても、食事という手段で外部から物質を取り入れ、身体を構成している古い物質と入れ替えて身体を維持しています。「身体を維持している」と言いつつ、本質的には「維持」と言うより「更新」であり、常に新しい物質が身体の外から入り、古い物質が身体の外に出て行きます。それは例えるなら、川は常に水が流れていてとどまっているものではないのに、「○○川」と同一性を指示されているのと同じです。
 細かい時間で分けてみれば、身体は常に変化し続けているので、現象と呼ぶ方が適切に思えます。

 また、心に関しても、日々新しい感情や思考が生まれています。意識の面でも考え方や意見は変わって行きますし、無意識の面でも長年の習慣から新しい心の癖は生まれるし、環境が変われば無意識の変化も生じます。
 長い時間の区切りで言えば、10年前の私は今の私とは意識的にも無意識的にも別人と言えるほど変化していますし、瞬間瞬間を見ても、楽しいことがあっても親しい人の訃報に接すれば一瞬で暗くなるといった変化も生じます。
 ある程度の連続性はありつつも、一瞬一瞬の変化が生じている、という特徴は「現象」と呼ぶにふさわしいものであると私には感じられます。
 一番初めに挙げた自然現象としての発火現象も、「火が燃えている」というある程度の連続性はありつつも、燃えている物質は一瞬一瞬違うものですし、風の強さや温度の変化で火は小さくなったり大きくなったりしますし、燃えるべきものが尽きれば火は消えます。
その意味において、発火現象と心や身体は同じ「現象」であると私には感じられます。


 「こころ」を現象として感じられると、不思議と楽な気持ちになります。
 「こころ」を「主体」として捉えると、様々な時に重く感じることがあります。
 先の例で言えば確定申告の書類を作成しないといけないのに、逃避してネットサーフィンなどしているとき、「こころ」を「主体」として捉えていると「ああ、やらないといけないことを後回しにしている私は駄目な奴だ」という気持ちが生じます。
 しかし、私を「現象」として捉えていると、「今は確定申告の書類を作成しよう、という意志が生じていないんだな」とある種自分を突き放して見ることができ、そうすることで「だから私は駄目な奴だ」という連想が浮かばなくなります。単に「そういう気分じゃないのね」と思うだけで終わるのです。
 そして逆にそのように「私」と意志を切り離して捉えていると、「まあやる気が無くてもやらないといけないことはやらないといけないよね」と書類作成に取り組むことができたりします。
 不思議なことに「私は自由意志を持った主体だ!個人だ!」と捉えていると、やる気があるとか無いとかに左右されがちですが、「やる気も意志もただの現象だ」と捉えていると、「やる気はないけどやりましょうかねぇ」と作業を始めることができます。
 ここの機微はちゃんとした説明が難しいのですが、やる気を現象として捉えるなら、「やる気」と「作業をすること」に過剰な関連付けをすることが無くなり、「やる気はない」けど「作業をする」ことができるようになるのです。「やる気がない」と「作業する」は別々の現象だよね、だから両方が並列しててもいいよね、みたいな感じでしょうか。


 「こころ」を「現象」として感じる感覚を言語化してみましたが、なかなかうまく言語化できた感じがありません。より明晰に言語化するには、もう少し丁寧に自分の感覚を追う必要がありそうです。

 とはいえ自分の心、特に意志や欲求といったものさえ「現象」であると捉えられたら、私は非常に心の軽さを感じました。意志や欲求といったものが「勝手に生じて勝手に消える自然現象と同じや」と思えた方が、逆に軽やかに生きていける感じがしたのです。
 この軽やかさをもう少し肚に落とし込みたいと思います。


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 最後まで読んでくださりありがとうございました!