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人の発しているサインを見逃したくない

 最近の現場で私はその現場の親方に叱られることが多々あったのですが、その現場に先日、私の仕事仲間と一緒に入りました。
 その日はその親方の社員さん2人と親方と私たち2人の計5人で草刈りと集草をしました。私と仕事仲間は臨時のお手伝いです。

 私も仕事仲間も社員さんと違ってその現場での仕事のやり方に慣れておらず、親方に叱られることがたびたびありました。その時の仕事仲間の反応がちょっと意外でした。
 彼は叱られたことに怒りを覚えていました。そして「なにくそ」と思って相手の要求以上の働きを示してやろうと反骨心を見せていました。その彼の姿が少し意外でした。

 というのは、彼は日頃非常におとなしく、声も小さい感情をあまり表に出さない人だったからです。彼の怒っている姿を見るのは初めてでした。ただ、彼は怒る時も静かに怒っていたので、もしかしたら親方には気づかれていなかったかもしれないです。「ちょっと不機嫌だな」くらいには思われたかもしれないですが。

 あの時私は仕事仲間の姿に少し驚きを覚えたのですが、それは私がその仲間のことを良く分かっている気になっていたのに、私が想像した反応をしなかったから驚いたのでしょう。

 また、私は叱られると元気がなくなってシュンとなるのですが、彼は逆に叱られて反発し、行動的になるのが興味深かったです(「興味深い」という言葉が適切ではない気がしますが)。私と同じ状況になっても違う反応を示すのだな、というのが興味深かったのです。
 そして、人は私と同じ状況になっても同じ反応を示すわけではないんだな、という至極当たり前のことをしみじみ実感しました。

 
 私はどうやら、人が私と同じ状況にあったら同じ反応を示すのだろうと無意識に考えているところがあるようです。だからこそ、仕事仲間が私と同じ状況になった時に、私と違う反応を示したことに意外さを感じたのでしょう。 
 今回の場合は人に叱られるという状況でしたが、人が喜ぶときや悲しむとき、苦しんでいるときも私と同じ反応ではないことが、当たり前ですがあるだろうなと思います。
 そして私と同じ反応を示さないことで、私が相手の感情のサインを見逃すことがあるかもしれないと思いました。

 例えば私は、苦しいことや辛いことがあったらあからさまに顔や態度に出ます。声のトーンも下がり、黙りがちになります。そのため、ある程度仲の良い人には私が苦しんでいる時は伝わるでしょう。
 しかし、人によっては辛いとき、苦しいときに顔や表情に出にくい人もいます。
 あるいは、深く苦しんでいるのに傍から見るとボーっとしているように見られる人もいます。頭の中では非常にたくさんの感情や思考が流れているのに、いや、流れているからこそ、それを処理して身体的な反応に接続することができず、いわばフリーズした状態になってしまい、それが外から見たときにボーっとしているように見られてしまう人です。
 そういう人たちの反応を見たとき、私がその人の辛さ苦しさを察することができず、「あ、意外と平気そうだな」と見逃すことがあるかもしれない、と思ったのです。思った、というより、そういうことがあるかもしれないと恐れた、という方が近いかもしれません。
 私にとって大事な人が苦しんでいるとき、その人なりのサインを出しているのに、私が見逃してしまうかもしれないことを恐れたのでした。


 なんでそんなことを恐れたんだろう、と内省してみたら、あ、そうか、見逃しちゃったことがあったからだと気が付きました。でも、それは今思い出して言語化するものでは無い気がするので、今は辞めておきます。
 唐突ですが、今日はこれで終わります。