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「バースデーバルーン」を読んで

 私はあまり他の人のnoteに言及しないようにしています。
 なぜ?と言われると困るのですが。だって、「この人のこのnoteが良かったんですよ!」って書くと、媚び売ってるみたいじゃないですか。おべんちゃらみたいに聞こえるじゃないですか。他の人には聴こえないかもしれないけど、私自身にはそう聴こえてしまう。私自身が「ああ、この人に媚び売っちゃったなぁ」って思ってしまう。それが嫌で、他の人のnoteを褒めるような記事は書きたくないんです。

 という前振りしといてなんですけど、今回の記事はそういう褒めるような内容です。



 青豆ノノさんというnoterさんの以下の小説を読んで、心が非常に動きました。

 私の心に生じた感情の正体は何なのか。罪悪感、後ろめたさ、自己嫌悪、後悔…。一つの言葉で言い表すのは難しい。

 以下で、上記の小説を読んで感じたことを雑多に書いてみます。上褐の小説を読んでいることを前提にして書きますので、もし以下を読まれる場合は上褐の小説を読んでからお読みください。



 妹の福子が生まれてとても喜んだ「僕」。目に入れても痛くないというほど可愛がった「僕」。でもだんだんと福子に対する感情が変化していく。

それからの僕は、福子を避けるようになった。もちろん、目の前にいて無視するようなことはしない。家族として、当然の交流を持つし、福子からの要望を断ったりもしない。だけど、どこかで別々に暮らしたい想いが芽生えてきたことは確かだった。

(中略)

泣いていた福子を助けたい気持ちと、関わりたくない気持ちが混在して、ますます身動きが取れなくなったのだ。

青豆ノノ 『短編小説 | バースデーバルーン | 創作大賞2024』

 福子への感情が変化していった経緯については、前段で示されています。福子が人に好かれるような言動をしなかったためです。『福子はとにかく人の意見を否定したがった。そのくせ、自分を否定されるのは大嫌いだ。』という描写に現れるような言動を繰り返していたのでしょう。いくら福子を可愛いと思っていた「僕」であっても、関わるのが億劫になっていくのも分かります。

 ちなみに福子についての描写を読んでいて連想したのが、『アルティメットセンパイ』でした。

 自分なりの基準があり、それに拘るがゆえに周りと軋轢を抱える人物像が若干重なりました(完全一致ではないものの)。
 また、頭でっかちである点は私にも非常に心当たりがあるため、私と似た匂いを感じ、福子に対して若干の同族嫌悪も感じました。

 ところで、「僕」が完全に福子を見限っているわけではないことも示されています。『泣いていた福子を助けたい気持ちと、関わりたくない気持ちが混在して』という描写にはそんな「僕」の心情が現れています。しかし『身動きが取れなくなったのだ。』つまり、「僕」は明確に何か行動を起こすことはありませんでした。

 このときの「僕」の心情には罪悪感というものがあったのではないか、と私は感じました。なぜそのように感じるのかという理由は、実はこの小説内に書かれている描写ではなく私自身の体験によるものです。

 私の両親は共働きだったので、私は小さいころ、親が帰ってくるまで近くに住んでいる祖父母の家で過ごしていました。祖母は私を可愛がってくれて、私も祖母に懐いていました。
 しかし、私が大きくなるにつれて、いろいろ私に世話しようとする祖母が煩わしくなり、祖母を避けるようになりました。
 その祖母も、祖父が他界し、私が社会人になってしばらくして老人ホームに入居しました。私は会いに行ける距離に住んでいたにもかかわらず、めったに会おうとしませんでした。端的に祖母を煩わしく感じていたからです。
 そして3年前に祖母は他界しました。祖母の葬式で私は泣きませんでした。
 小さい頃はおばあちゃんっ子であれほど祖母に懐いていて、祖母からも可愛がってもらったのに、大きくなった私は祖母を疎ましく感じ、非常に冷淡に接してしまいました。葬式の時にそれを痛感して私は自己嫌悪と罪悪感を感じていました。

 
 福子に対して何かしたいという気持ちと共に、関わりたくない、一緒に暮らしたくないという気持ちを持っていた「僕」は、あの時の私と似た罪悪感を感じていたのではないか、と私は思いました。小さい頃はあれほど可愛がっていた福子に対して、疎ましく感じてしまう自分に罪悪感を感じていたのではないか、と。


 ところで、「僕」が久々に実家に帰ってきた時の実家の家族の描写が非常にリアルで辛くなりました。

母親はこの二年半の間に、ため息ばかりつく人になっていた。母なりに不満が溜まっているようで、ずいぶんと老け込んでいた。父は今まで通り会社勤めを続けていたが、朝が早く、夜は遅い。さらに、仕事関係の付き合いが再開したのをいいことに、家族のことは知らんふりしているようだ。

青豆ノノ 『短編小説 | バースデーバルーン | 創作大賞2024』

 かつて私は引きこもりについて強い関心(というかシンパシー)を感じて引きこもりに関する書籍を読み漁った時期がありましたが、その時に読んだ引きこもり当事者の家族の描写と非常に合致していたので、上記の描写をとてもリアルに感じました。
 それらの文献によれば、引きこもり当事者は家族内で孤立しており(私が読んだ文献では「デタッチメント」と表現されていました)、母親とは直接的なかかわりはあるが、父親は無関心であるという状況が多いそうです。

 また、詳細は書けませんが、私の家族内でも似たような状況があった時期があり、それとも重なったためによりリアリティを感じたのかもしれません。

「ふくちゃん、お誕生日おめでとう」

 僕は唐突にそう言った。それまでの間を埋めるような言葉を持ち合わせていなくて焦ってしまったのだと、今では深く反省している。

「全然うれしくないよ」

 福子が言った。

「毎日死にたいのに、またこの日がきたんだよ」

 福子の声はかすれていた。

「お母さんが、わたしを生みさえしなければこんなに苦しまなかった」

 福子の声は震えていて、この瞬間にまた少し頭が大きくなった気がした。

「今日は一年で一番死にたい日」福子は言う。

青豆ノノ 『短編小説 | バースデーバルーン | 創作大賞2024』

 ここの描写は読んでいて一番福子に感情移入した場面でした。
 「お母さんが、わたしを生みさえしなければこんなに苦しまなかった」
 この言葉を母親が聞かなかったことは幸いなのか不幸なのか。しかし福子の正直な気持ちであったでしょう。福子にとっても、「僕」にとっても、母親にとっても残酷な言葉であったとしても。
 仏教では「四苦八苦」と言って人生の代表的な苦しみが8つ示されますが、一番最初に示されるのが「生」です。これは伝統的には「生じる」「生まれる」と解されています。福子が感じていたのは「生」の苦しみだったのでしょうか。

「なーなはさあ。都合よく、妹が出来て喜んで、可愛がって、挙げ句、捨てたじゃない」

 福子の言葉が突き刺さる。

「わたしは、人形じゃないんだよ」

青豆ノノ 『短編小説 | バースデーバルーン | 創作大賞2024』

 この言葉は私にも突き刺さりました。
 前述の通り私は子どもの頃は祖母に懐いていたのに、大きくなってからは疎ましく思い、避けていたからです。
 小さい頃は都合よく祖母に懐き、可愛がってもらいながら、大きくなったら祖母を見捨てたのです。その自分が福子から糾弾される「僕」に重なりました。 

「成功する方法も、失敗した事例も同時に知ってしまうから。まるでもう経験したような気持ちになって、動機を見つけられなくなった」

 心が動かなくなった、と言った福子は涙を流しているようだった。

(中略)

「自分が頭でっかちなことを知ってる。皆がわたしを避けていることも知ってる。それは見た目の異様さではなくて、この可愛げのない性格のせいだってことも、知ってる。このままではいけないことも知ってる。本を読むより、体を動かした方が良いことも知ってる。

 ……知ってるふりして、実際には世の中のあらゆることを一つも経験していないことも知ってる。全部知ってて、それなのに、何一つうまくいかないの」

青豆ノノ 『短編小説 | バースデーバルーン | 創作大賞2024』

 ここは非常に現代的な悩みであるように感じました。
 今のようにアクセスしようと思えばどんな情報もネットで手に入る時代だからこその悩みであるように感じました。嘘か真か分からない、玉石混交の様々な情報だけは手に入り、知った気になってしまう。「知ることと体験することは違う」という「知識」まで手に入る。だから、全て知ったような気になってしまい、行動を起こす動機が喪われる。
 この状況を打破するには、小さいことでも何か行動を起こすことが大事だと思いますが、まずその「行動を起こす」という意欲自体が削がれているので、行動を起こせずにいるのでしょう。
 この福子の悲痛な思いは現代に生まれた若者全般に通じる悩みに思いました。 

「ねえ、今日はふくちゃんの誕生日だけど、なにか声かけた? おめでとうとか、生まれて来てくれてありがとうとか。あ、愛してるとか……」

 僕はその場に泣き崩れた。

 母は焦った様子で「いったい、あんたまでどうしたのよ」と肩を揺らしてくる。

 どうもこうもない。今日、しっかり伝えないといけないってことに、僕は気がついたんだ。

青豆ノノ 『短編小説 | バースデーバルーン | 創作大賞2024』

 私はこの場面での「僕」が少し羨ましかったです。
 私は祖母が他界するまで気が付かなかったのですが、「僕」は福子と一緒にいるこのタイミングで気づけたのですから。

 福子の頭は異常に熱を持っていた。だけど、それは福子にとっては特に珍しいことではなかった。しかし、仮にこれが僕や母であれば、病院に行って薬を処方されるレベルの熱なのだ。福子にとってよくあることでも、それは決して、彼女にとって快適な状態ではなかったはずだ。

青豆ノノ 『短編小説 | バースデーバルーン | 創作大賞2024』

 この描写は本当は生きづらさを抱えているのに、一見不都合を抱えているように見えない人たちの描写のように感じました。
 例えば発達障害を持っている方、境界性知能の方、軽度の身体障害などの障害を持っている方、臓器や免疫に疾患を持っている方などです。本人は苦しみを抱えながらも懸命に行動しているが、他の人にはその困難さが見えづらいので、その人の失敗が本人の努力不足や怠惰が原因だと思われてしまうような人たちです。

 

 終盤の福子に絵本を読む場面は特に心揺さぶられました。

 この場面において、福子はだんだんと自分を解放させていきます。

福子が笑った。それは僕が知っている、可愛い笑顔だ。

青豆ノノ 『短編小説 | バースデーバルーン | 創作大賞2024』

 この時の福子の笑顔は何年ぶり、もしかしたら十何年ぶりかもしれないくらいの自然な笑顔だったのではないでしょうか。
 飛んで行った絵本の猫に自分を重ね、福子自身も飛んでいこうと心に決めていったのでしょう。実際、これ以降の福子の言葉には迷いがありません。

「幸せになったよ、きっと。飛んで行って、新しい人生を生き直したはずだよ。そうでないと、絵本にしちゃいけないんだよ」

(中略)

「バースデー・バルーンだよ。祈りを込めて、空に飛ばすの。それがわたしが今一番望むこと」

(中略)

「もう決めたの。ありがとうね、なーな。きっとまた会えるよ。新しいわたしと」

青豆ノノ 『短編小説 | バースデーバルーン | 創作大賞2024』

 しかし福子の定まった心とは対照的に「僕」は震えてしまいます。

僕の体はいつのまにかがたがたと震え始めていた。福子の本気が伝わってくる。それ以上に、目を疑うほど福子が膨らみ始めているのを目の当たりにし、この二十年で初めて福子に対し恐怖を感じていた。

青豆ノノ 『短編小説 | バースデーバルーン | 創作大賞2024』

 私はここに、最後の、そして最大のすれ違いを見ました。

 福子にとって風船バルーンになって飛んでいくことにポジティブな感情を抱いています。それに対して「僕」は恐怖に近いネガティブな感情を抱いています。

 これは福子の「自立」の描写ではないでしょうか。福子が行き詰った「家族」という枠から文字通り「飛んで行き」、新しい人生を始めるための一歩というように読み取りました。
 逆に「僕」は今までの通りの「可愛い妹」という枠に福子を閉じ込めようとしており、そこから飛んで行こうとする福子に対して恐怖を感じたのではないでしょうか。

 飛んで行った福子が、福子の望みの通り幸せに新しい人生を生き直して幸せになったのか、死んでしまったのかは分かりませんが、仮に福子がこの後死んでしまったとしても、私はこの福子の行動を祝福したい気持ちになりました。敢えて誤解を招く表現をするなら、福子のこの時の行動は「絶対に正しい」。

 私はこの場面を読んでいて、ある大好きなゲームの一場面を連想していました。

 聖剣伝説レジェンドオブマナというゲームの「レイチェル」というイベントです。
 詳細は是非上記のブログや、ブログ内の動画を見てほしいのですが、テーマとしては親子の関係性、子どもの自立が描かれています。
 その中で娘であるレイチェルが父親であるマークに次のように言う場面があります。

私はいつもおとうさんの側にいたのに見てくれなかったよね?

マーク
「私が? 見てなかった?」

おとうさんが見てたのは、自分で作りだした私の幻想。
でも遠くはなれて、やっとこうして言葉をかわすことができたわ。

聖剣伝説レジェンドオブマナ イベント『レイチェル』

 このレイチェルの言葉と、福子にちゃんと向き合って来なかった「僕」を含めた家族の在り様が重なりました。
 『レイチェル』において、父親のマークは娘のレイチェルを愛していました。愛していたがゆえにレイチェルに何でもしてあげていたのですが、そのマークが見ていたのはレイチェル本人ではなく「自分で作りだしたレイチェルの幻想」でした。

 他方、福子に最後に絵本を読んであげた「僕」も福子のためを思っての行動でした。あの場面においては本心から福子を可愛いと思い、福子のためを思って接していたでしょう。
 しかし、福子にとって希望溢れる「風船になって飛んで行く」という行動を受け入れることができませんでした。その行動を本気で実行しようとする福子に恐怖すら感じてしまいます。
 
 ここにおいて、最後までお互いを想いながらもすれ違いは解消されないという残酷で現実的な結末を迎えます。


 ここまで書いて、私がなぜ青豆ノノさんの「バースデーバルーン」に心動かされたのか分かりました。
 私にとって深い後悔や罪悪感を伴っていた私の祖母との関係と幼少期に多大な影響を受けた大好きなゲームと重なる部分が多かったため、「バースデーバルーン」を読んで心動かされたのでした。私にとって非常に個人的で、心の深いところに沈んでいたものが刺激されたのでした。
 作品の読み方として、関係ない他の作品や個人的体験と結びつけて読むのが良いのか悪いのか分かりませんが、図らずも私にとって大事な傷たちが撫でられてしまったので思わず記事にしてしまいました。


 ちなみに蛇足ですが、

 ねえ、ふくちゃん。僕はね。

 僕という無責任な兄は、きみがどこかで、これまでのきみとは違う体に生まれ変わって、楽しく生きていてくれないかと、自分勝手に願っているんだ。

聖剣伝説レジェンドオブマナ イベント『レイチェル』

 この「僕」の最後の独白について、作者のノノさんの想いとは全く違うところで、前褐の『レイチェル』との奇妙な類似性を見つけて一人興奮しました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!

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