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私にとっての松葉舎について(その2)

 最近、松葉舎の授業ではとある新聞社の記者の方が記事の執筆のために参加されています。私も授業で何度か御一緒しています。
 そして先日、その方からインタビューを受けました。松葉舎の記事を作成するにあたり、塾生にインタビューをされているそうです。

 インタビューでは私が松葉舎に入ることになった経緯や松葉舎で得ているものなどについて話したのですが、改めて人に対して説明することで私の中で腑に落ちるものがいくつもありました。

 私がインタビューでお答えした内容は、私にとっての松葉舎はどういう存在か、私の探求する瞑想・言語化身体の三つの軸はどう言ったものかというものだったのですが、お話する中で「松葉舎での学びは塾長の江本さんや他の塾生の方がいるからこそ生まれるものだ」と改めて思い至りました。

 今の私にとって自己探求の三つの軸は瞑想・言語化・身体ですが、仮にその三つの軸において探究していたとして、松葉舎に参加していなければ今ほど自己探求は広がりと深まりを見ていなかったように思います。塾長の江本さんからの授業があり、私の近況報告を江本さんや他の塾生の方が深めてくださり、また他の塾生の方の探求の進捗を聴かせていただくからこそ、私の自己探求が深まっているように感じます。というようなことをインタビューの時にお答えしました。
 すると、その記者の方から、「松葉舎では話しても大丈夫という安心感や信頼というものがあるのですね」とコメントをいただき、「なるほど!まさにそれだ!」と思いました。


 松葉舎での学びは、複数人での授業であることに大きく由来しているように私は感じています。しかし、その「複数人」という要素は、決してどんな人でも良いというわけではないのです。
 私が松葉舎で話している内容は、noteに書いているような内容ですが、現実の仕事仲間や友人や家族にはあまり話さない内容です。話すこともありますが、多くの場合理解されなかったり、興味を持たれなかったりします。
 しかし、松葉舎においては、その場にいる人に対して私は「この人たちなら私の話を聞いてくれる。それどころか私以上に私の話を深めて掘り下げてくれる力量さえ持っている、信頼できる相手だ」という気持ちを持っています。その気持ちがあるからこそ、私の話もかなり深く話すことができますし、それに対する塾生の方々のフィードバックも深いものになるのだと気づきました。
 そうであるなら、松葉舎での学びの本質は「相手に対する信頼感」と言えるのではないかと思いました。

 インタビューを受けている時に即興で作った例えですが、松葉舎での学びは大学の研究室になぞらえることができるように思います。
 大学の研究室では多くの場合、研究室にいる学生はみなそれぞれ個別に研究テーマを持っています。研究室に所属している教授も独自の研究テーマを持っています。しかし、一つの研究室ということで、研究の大枠においては共通の知識や関心があります。
 松葉舎も同じで、塾生それぞれに探究するテーマがあります。それぞれのフィールドはファッションだったりダンスだったり哲学だったり様々ですが、「探究を続けている過程である」という点で共通しています。
 松葉舎の授業で塾生がそれぞれの探求課題を報告する様は、研究室で学生たちが時々自分の研究の近況報告をしつつ、周りの学生から質問や指摘を受けて深めていくのに似ています。同じ研究室なので共通の知識や関心があり、しかしそれぞれの研究テーマが違うからこそ異なる専門性が生まれ、それが良い意味での異質性を生みお互いの刺激になります。


 それぞれは個別に深め合っているのに、確かに塾生同士は仲間であり、ある種「共に深めている」と言える一体感を感じることのできる関係性。それが松葉舎の特長であり、松葉舎での学びを深くしている当のものであると気づけました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!