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「私は執着から離れることを目指す仏教徒である」という執着

 自分の中に強烈なエゴがあるなぁと最近実感したので言語化してみます。

 以下のスペースの録音を聴いていた時のことです。
 簡単に言うと、このスペースで仏教の戒(守るべき規則)についての話題があり、そのことについて考えてみるに、自分は戒を守ることを名目にエゴを強化しているところがある、と気づいたのです。以下、このことについて書いてみます。

 このスペースの最後の方で仏教の戒についての話題の時、飲酒について触れられていました。
 仏教では「不飲酒戒ふおんじゅかい」という、お酒を飲まないようにしようという戒があります。仏教徒としてはその戒を守ることが望ましいのですが、日本社会においてそれを厳守しようとすると、飲み会などでお酒を断ることになり雰囲気が悪くなるし、そのお酒を飲まない理由を聞かれて「信仰上の理由で…」などと答えると奇異の目で見られるので、厳密に守ろうとすると難しいよね、というような話題でした。

 ところで、私はお酒を飲みません。飲まない理由の一番のものは上記の不飲酒戒ふおんじゅかいです。さらに、飲み会などでお酒を断る時、理由を聞かれると「仏教の戒に反するので」と答えます。当然多くの場面で引かれたり、変な目で見られます。それを分かった上でなお、私は仏教の戒を理由に飲酒を断ります。
 仏教の不飲酒戒ふおんじゅかいを守るためにお酒を断るようにした当初は、断る理由を戒のためだとは答えていませんでした。単に「お酒が飲めないので…」とはぐらかして逃げていました。
 しかしある時、「別に仏教を信仰することは誰に恥じることでも無いし、迷惑をかけることでもないのに、なんで仏教を信仰しているからお酒が飲めない、と理由を述べるのを避けないといけないのか。社会が宗教に対して忌避感を感じているからと言って、私がその社会の風潮に迎合しないといけない理由は無いじゃないか」と思うようになり、それからは戒を守るために飲まないのだ、という理由をはっきり伝えることにしました。

 要するに私は腹が立っていたのでした。私の自由で仏教を信仰し、そのために自分でお酒を飲まない、と決めているのに、その理由を公にすることを憚られる雰囲気があるのはなんでだ、と。誰に迷惑をかけているわけではないのに、何で私の方が社会に遠慮して配慮しないといけないのか、と。(飲み会でお酒を断って雰囲気を悪くするという迷惑をかけてる、というのは無しにしてくださいね)
 たぶん私が腹を立てたのは、日本の社会によくある同調圧力に対してだと思います。大多数の日本人が特定の宗教を信仰していない現状で、特定の宗教を理由に慣習的に行われている行為(飲酒)を拒否するということに対して、憚られるような空気というのを私が感じ取り、それに対して「くそくらえ」という憤りを感じたのだと思います。だから、あえてその社会の空気を乱すように「いや、仏教の戒を守りたいのでお酒飲みません」という言い方をしているのだと思います。

 ちなみに仏教は五戒と言って在家者には5つの戒があるのですが、不飲酒戒以外の戒はそれぞれ、

1.不殺生戒ふせっしょうかいーあらゆる命を殺さない
2.不偸盗戒ふちゅうとうかいー盗まない、自分のものでないものを自分のものにしない
3.不妄語戒ふもうごかいー嘘をつかない
4.不邪淫戒ふじゃいんかいー不倫しない

 です。
 このうち、不殺生戒については私は守れていないです。蚊に血を吸われても殺さないということはできるのですが、山仕事でスズメバチの巣があったら作業ができないので、殺虫剤で殺します。また、マムシが出ても殺します。マムシが出て逃がすと、他の作業している仕事仲間が噛まれるかもしれないからです。
 自分にだけ影響するものであれば守れますが、他人が巻き込まれるものは守れないこともあります。

 ちょっと話が逸れましたが、なんにせよ、私は戒を守るようにしています。
 ところで、戒はあくまで自分自身の心を穏やかにし、瞑想修行が捗りやすくするためのものです。しかし、自分の心を子細に観ていくと、戒を守ろうとすることで自分の心を穏やかに、清らかにするのとは反対の影響があることに気づきました。
 
 まず一番分かりやすいのが、戒を守らないでいる人のことをうっすら下に見ることです。安易に蚊を殺したり、嘘をついたり、お酒を飲んだりする人のことをうっすら下に見ている自分がいます。その人たちは仏教徒では無いので、そもそも戒を守る必要はないのですが、戒を守っている自分の方が戒を守っていないその人たちより優越しているかのように感じている自分がいます。
 次に、戒を破らざるを得ない職業もうっすら下に見ています。
 例えば殺虫剤を作る薬剤会社やお酒を造る酒造会社に対して、少なくとも私はリスペクトを抱いていません。当然、私がそういう会社で働くことは絶対ないでしょう。

 仏教では、戒は自分の心が汚れるのを防ぐ盾だ、という言われ方をするのですが、これでは逆に自分の心を汚す道具になっているな、と思います。
 自分と人を比べることを仏教では「慢」と言い、相手を自分より下だと見下す心を「増上慢」と言います。戒を守っていない人や戒を破らざるを得ない職業に対する私の心はまさにこの増上慢です。心を汚す態度です。

 そういう風に自分の心を観ていた時に、自分の心に強烈なエゴがあるな、と気づきました。そのエゴは、「自分が仏教徒であることにアイデンティティを感じている」というものです。いや、もっと直截的に表現すると「俺、仏教徒なんだぜすごいだろ!」というエゴです。自分が仏教徒であることに優越感を抱いているからこそ、周囲から変な目で見られるのにも関わらず仏教の戒のことを話すのです。

 日本において特定の宗派を信仰することは特殊なことです。そのため、わたしは自分が仏教徒である=特定の宗派を信仰している特別な存在である、という優越感を感じているのでしょう。「特別な自分すごいぜ!」みたいな。
 スペースの録音を聞いて、自分の不飲酒戒に対する態度を省みたとき、そのようなエゴが見受けられました。

 仏教はあらゆる執着から離れることを目指す教えですが、自分のエゴにめっちゃ執着している心が見えました。
 これはきっと自分の「何かに執着したい」という心があって、その執着しやすい対象として仏教徒というアイデンティティが見つかったので、それに執着したのだと思います。

 「俺は執着から離れることを目指している仏教徒だぜ!すごいだろ!」と執着している自分の心が見えました。


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 最後まで読んでくださりありがとうございました!