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甘えたがってる心

 先日瞑想をしていた時、ふと自分の中に特定の人への怒りを覚えていることに気づきました。その特定の人と言うのは、「甘えている人」です。

 さらに自分に対して、なぜ甘えている人に怒りを覚えるのか探ってみると「俺が人に甘えられないのに甘えていて、それなのにその人の甘えが受け入れられているから」という自分の心のつぶやきが聞こえてきて、「あ、そうか。甘えている人への怒りというものは、要するに私自身が甘えたいと思っているということか」と気づきました。私が甘えたいと思っているのに甘えられていないから、甘え(られ)ている人に対して怒り(逆恨み)が生じるのだと気づきました。

 さて、自分が誰かに甘えたい、と望んでいることはわかりましたが、私には甘えられる相手というのがいません。なので、自分で自分を甘やかそうと思いました。
 しかし、そこまで考えたところで「はて、甘えるとは具体的に何をすることなのだろう。甘やかすとは具体的に何をすることなのだろう」と分からなくなりました。「甘える」って何だ?

 そこで、「甘えている」という状態をどういう状態であるかを自分の心に問うてみたところ、赤ちゃんのイメージが思い浮かびました。
 赤ちゃんは自分が不快に感じることがあれば泣きます。泣いて周囲(多くの場合は育て親)に自分の不快を伝え、周囲に自分の不快を除去してもらおうとします。お腹が空いたら泣き、排せつでおむつが汚れたら泣き、よくわかんないけど気持ちが悪くなったら泣きます。周囲は赤ちゃんが泣き始めたら、赤ちゃんがなぜ泣いているのかを必死で探し、泣いている原因を取り除こうとします。
 敢えて悪い言い方をするなら、赤ちゃんは自分の不快を自分で取り除くのではなく、他人を動かし他人に改善させようとします。ただ、赤ちゃんは自分でできることが少ないので、それは仕方がないことではあります。

 また、赤ちゃんは自分が快を得られる状況を保とうとします。お母さんに抱っこされたいと思ったらずっとくっついていこうとします。お母さんが家事で少し赤ちゃんの傍を離れようものなら泣き始めてしまいます。
 赤ちゃんのように自分の快を得ること、快である状態を保とうとすることに貪欲で、自分の快のためなら他人の不利益も省みない姿勢に対しても「甘えている」というイメージを持っているようです。

 私が「甘えている」という状態から赤ちゃんのイメージが出たということは、私が「甘えている」という言葉でイメージしている状態は赤ちゃんの状態であると分かります。つまり、自分が不快な状況にあった時、自分でその不快に思う原因を探り、取り除こうとするのでなく、他人にその原因を取り除く労力を払わせること、また、自分が快を得るために貪欲であり、自分が快を得るためなら他人が不利益を被っても省みないような姿勢を「甘えている」と見做すようです。


 「甘えている」という状態をつらつら考察してみましたが、非常に短く表現すると「自分のわがままを聞いてもらう」ということのようです。私は誰かに私のわがままを聞いてもらいたい、と思っているのかもしれません。

 ところで、私は四六時中わがままを聞いてもらいたいと思っているわけではありません。今も特にそういう気持ちはありません。
 ただ、たまに酷く寂しさを覚えたり、自分がやっていることに虚しさを覚える時期というかタイミングがあり、その時に「甘えたい」という気持ち、というか衝動が生じることがあります。そういう衝動が出たときはさっさと寝たり、こうしてnoteに文章化したりして発散していますが、今回気づいた自分の「甘えたい」の気持ちは、けっこう深いところで大きな熱量を持っているようだったので、今のまま放置はちょっとヤバいかもなぁと思い始めました。
 今はある程度落ち着いているので、その衝動が出てきても誤魔化したり抑えたりできていますが、金銭的、精神的、時間的余裕が失われた時にその衝動に襲われた時、果たして今のようにその衝動をいなしていけるかちょっと自信がないなぁと思いました。
 あるいは、加齢によって心身が衰えた時も、その衝動に襲われたら暴走してしまうかもしれないな、と危惧しました。


 以前、どなたかのnoteで「自分の機嫌を自分でとる」という表現を読みました。良い表現だなぁと思いました。
 要するに私は自分で自分の機嫌を取るのが下手なのだと思います。今はそれでもまだ何とかやってこれていますが、この先はもしかしたら暴発することがあるかもしれないなぁということに気づいた一日でした。



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