【長編小説】(8)別れを告げた半身を探して
真っ暗の中で目覚め、瞼を動かすと白く霞んだ細長い世界が見えた。ゆっくりと眼球が役目を思い出し、重い瞼が反射で開くと、水底から空を見上げたような青があった。目の前を鰭が発達した古代魚が緩やかに泳いで行ったところで、アレックスはようやく事態を思い出す。
飛び起きると、随分昔に打ち捨てられた私立文庫の埃っぽい空気が肺を満たした。人間の営みから切り離されて久しい、眠りと停滞と荒廃の匂い。初めて来た場所なのになぜか懐かしさを感じさせる、暖かくも冷たく、寂しい場所だ。
どこか夢心地な顔をしたアレックスだったが、周囲を見回し、テーブルの隅に小柄な人影を見つけた瞬間、背骨の奥に力を込めた。サイコキネシスを発動する動きだ。しかし彼の視線の先では何も起きない。
「てめえ、俺に、何をした」
喉の奥から唸るように問うと、細い指が絵本のページをめくってかさりと乾いた音がした。オルガのこぼれ落ちそうなシアンの瞳がこちらを向く。
「そんなに怒るようなことじゃない。ここを壊されるのは困るから、能力が発動しないようにしただけ」
「充分怒るようなことだぞそれは!」
「そうなの?大丈夫だよ。君に何かをしたわけじゃなくて、この空間に能力を使っただけだから、ここを出ればいつも通りに戻る」
「ふっざけんな!」
ソファーを軋ませて大きく飛び上がったアレックスがテーブルの上に狙いを定める。読んでいた絵本を胸に抱えて椅子の上に身を縮こませたオルガの目の前でテーブルを叩き割ると、舞った木屑の向こうにアリスブルーの眉がひそむのが見えた。
「やめてよ。壊さないで」
「俺と戦いやがれ!」
超能力が使えないなら物理攻撃を仕掛けるしかない。アレックスは彼女に殴りかかったが、繰り出した拳は紙一重で届かない。
「何っ、くそっ……どういうことだこれは!」
「全自動の防御システム的なやつだよ。私に向かってくる攻撃は、全てオートで退けられる」
「んなチマチマしたことしてんじゃねえ!」
「そんなこと言われても、私の意思とは関係なく発動するものだから仕方がないよ」
「くっそ……」
「もう諦めて帰ってよ」
「た、た、か、い、や、が、れ!」
「何であなたはそんなに戦いたがるの」
ため息をつくオルガを殴り続けるも、拳に触れるのは水面のような柔らかく虚な感覚ばかり。
「俺は最強でなきゃならねえんだ!俺に勝てない相手なんて、ない!」
アレックスの攻撃を退ける”紙一重”は、あらゆる力を完全に吸い込む薄いベールのような能力だ。しなやかで穏やかで、彼の拳を傷つけることもない。緩衝材のようであり、鎧であり、別次元の隔たりのよう。柔い手のひらでそっと受け止めるようなその優しさが、アレックスの神経を逆撫でる。
繰り出した拳の上に青い光が落ちてきて、視界の隅でこちらに向かってくる銀色の欠片を捉えた。反射的に後ろに飛んでそれらを退けてから、それが頭上の水面の光と空間を踊るように泳ぐ小魚だったことに気づく。宙に浮く海というおとぎ話のような幻に、アレックスは奥歯を噛み締めた。
「力を持ってるくせに、なぜ戦わない」
殺気をみなぎらせて問うているというのに、彼女は椅子の上で三角座りをしてあろうことか絵本を開いた。
「『できる』ということは『やらなければならない』に直結しない」
「屁理屈を……俺が攻撃してんだ。応戦しろ」
「届いてないんだから、私は攻撃を受けていない」
「馬鹿にしやがって!」
「だから、馬鹿になんかしてない。それに……」
”マリー・ジャネット著 幸せの空飛ぶ鯨”
子供向けの荒唐無稽な物語が描かれた絵本を向いていた大きな瞳が、何か見えないものを見るように動いた後、ぴたりとアレックスに焦点を定めた。
「超能力を他人に向けるのは嫌だから」
身体の髄を何かが這い上がる感覚に鳥肌が立つ。怒りとも憎しみとも悲しみともつかない鬱蒼とした感情が内臓の奥をぐるぐる回っている。どうしてこんな感情が湧き上がるのか理解できなくて、思わず肩の力が抜けてしまった。理由を探して記憶を漁るアレックスの顔の周りを、ヒラヒラした尾のカラフルな魚が行き来する。
透明に近い大きな魚が目の前をくるくると泳いだ。細かな鱗の表面が、青の光を分解して反射する。アクアグリーンと、シルバーホワイト。自分を写したような色彩に、思い出したのは瓜二つの双子の兄。
『超能力を他人に向けるのは嫌なんだ。この能力はきっと、僕自身のためにあるものだから』
図らずも失った兄と同じ言葉を口にした目の前の憎き壁に、アレックスは眉根を寄せて唇を噛んだ。自分の求める最強の道に立ちはだかる敵が、いつまでも一緒に居たかった人と同じことを言う。叫び出したいほど不愉快で、けれどその感情を認めたくない。これを言語化してしまったら、何かを失うような気がした。
アレックスは近くにあった虫に食われてスカスカのテーブルに、全身の力を込めて頭突きをした。表面がささくれ立った天板が真っ二つに裂けると同時に、額に染み込むような痛みが走る。復讐屋を始めて十数年。最近は対象者を一方的に蹂躙するばかりで、痛みを感じるなど久しく無かった。
「てめえは、そうやって……何なんだ!ああ言えばこう言う!何がしたいんだ!」
「何がしたいって……それはけっこう私のセリフだと思う。血が出てるよ?」
「うっせえ!戦え!」
「嫌だよ。君、有名な復讐屋なんでしょう?そんなのを倒したとあっては目立つし」
「クソが。まるで俺に勝つような言い草だな」
「勝つよ。というか、私は負けない」
「だったら証明してみろ!」
「だから嫌だって。そんなことして研究所の人間に見つかったら、鯨を探せなくなる」
「……は?鯨?」
唐突な話題の転換にアレックスが疑問符を飛ばすと、オルガは手にした絵本の表紙をかざして見せた。
「これ。空飛ぶ鯨。私はこれを見つけたい」
穴の開いた風船のように怒りが萎んだ。シュウっと音を立てて何かが噴き出して、抜け落ちていく感覚。「君は見たことがある?」と続けるオルガはずっと変わらない無表情だが、その問いがジョークや何かではないことはわかる。彼女は真面目に問うている。絵本の中の空想と出くわしたことはあるか、と。
思わず身を引いたアレックスは、これが俗に言う『ドン引き』かと納得した。背筋を気恥ずかしさのようなものが迫り上がる。空想を現実と信じている彼女は頭がおかしいのだろうか。そんな風には見えないけれど。
「お前……それ、絵本だぞ」
「知ってるよ」
「子供向けの絵本だ」
「そうだね」
アレックスの指摘に真顔で応える。彼女は”本に書かれていることが真実であるとは限らない”と言う常識さえ得られないような出自なのだろうか。
「……子供向けの絵本は、図鑑じゃねえぞ」
「それはそうでしょう」
「それは空想だ。こんな世界があったらいいなと思った誰かが描いた、作り話だ」
しんと停止した空気の中を、オルガが小さく息を飲む音が伝わってきた。その微かな振動が鼓膜を揺らした瞬間、アレックスは自分の言葉を後悔した。信じてきたものを、頼りにしてきたものを失う痛みを彼は知っている。ぴたりと動きを止めたオルガの姿に、過去に置いてきた傷口を思い出した。
オルガが抱えていた脚を伸ばして床につくと、つま先が触れたところに木の芽が伸び出した。腐り落ちそうな
床板が息を吹き返して芽を伸ばし、カビていた表面に潤いが戻る。
室内いっぱいに草木が葉や茎を伸ばしていく。みずみずしい緑の中に春の花の淡い色彩が混じり、水面を模倣していた頭上は晴れ上がった空の青に。そこを巨大な水性生物の影が横切って、アレックスはこの全てが幻だと理解した。
「私たちの能力は物理法則を捻じ曲げて、そこにないものを存在させ、あるものを無かったことにする。誰もがそんな能力を持ってるのが、この世界だよ」
なり損ないの影の鯨が、オルガの身体を通り抜けていく。偽物の生命の息吹の中で、彼女は静かに微笑んだ。
「そんな世界なんだから、空飛ぶ鯨がいたって不思議じゃないでしょう?」
この国に住む者なら誰もが知っている絵本、”幸せの空飛ぶ鯨”。婚約者を喪った失意の女は、夜道を徘徊していたところ空飛ぶ鯨と出会う。婚約者との再会を乞う女に、鯨は一番大切なものを差し出せば婚約者と会わせると言う。女はその言葉を信じて財産を、思い出のアルバムを、最愛の人にもらった婚約指輪を差し出すも、鯨は「それではない」と首を振る。
物語の最後、自分の大切なものを探して婚約者との思い出の地である美しい森を訪れた女は、そこで一つの答えに行き着く。女は自身の心臓をくり抜いて、頭上を泳ぐ鯨に差し出す。瞬間、青々と茂る森は大海の水底に代わり、女は最愛の人と再会する。
作者のマリー・ジャネットは幻を見せる超能力の持ち主だった。彼女はこの絵本を完成させた年の冬に、自身の能力の暴走で幻覚を見て死んだ。自ら描いた絵本の主人公同様、自身の心臓をくり抜いて。以降、半世紀が過ぎた今でも、彼女と同じ能力を持つ人間の誕生は観測されていない。一説には、彼女の能力は身体を抜け出て自由の身となり、そこかしこを彷徨って気まぐれに誰かに幻を見せているとか。
想像と現実の境界に立つようなオルガの表情に、アレックスは馬鹿馬鹿しい都市伝説を思い出した。そして結論する。目の前の小柄で頼りなさそうな女は、最強ではあるが無敵ではない。
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