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雪ふりつむ

鳴沢 湧 

三好達治の『雪』という短い詩を引用してみよう。
『太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。』

我が家は古い家だった。明治十三年生まれだった祖父が若いころ家の周りだけに土台を入れたという。それ以前の柱は石の上に立っていたという。
畳替えのときに、畳の下のざら板をかなり取り換えたことがあって、土に埋めた石の上に石の凹凸に合わせて削った柱の、立ちようを見た。
江戸時代の建物であることが明白だった。
そういう造りだったので建具の、立て付けが悪かった。目張りをしてあっても所どころ剥がれて風が音を立てていた。
去年の暮れころから日本海側の大雪が報道されている。吾が郷里は長野県だが雪は比較的少ない。多いときで五十センチ、そんな大雪は何年に一回くらいである。しかし寒さは、ときには零下二十度を超えるときがあった。
昼間日が当たって溶けた雪が萱葺きの萱に浸透する。それだけでも重いのにさらに夕方から雪になることがあった。
炬燵の炉にたっぷりと炭を継いで毛布を達磨のように頭から被って、炬燵やぐらに抱きつくようにして本を読んだ。
本から顔を上げて耳を澄ませば、ギーとか、ビシッと小枝を折るような音がする。寝静まった家の中に目覚めているのは私だけだ。その中で微かな音が私を捕えて離さない。
音にリズムがあれば耳に馴れるが、全く違う音が違う間隔で微かに、いつ終わるともなく続いている。
家が泣いている、と私は思った。
太郎、次郎とその母はその家の屋根の下で寝ているのであろう。すやすやと眠るがいい。
一夜明ければ銀世界。子どもには胸が躍る景色だが、母はその中で凍った樽から漬物を出し、土室(つちむろ)から芋や大根を引っ張り出し、食材を揃えて、調理して朝食を整えなければならない。
井戸は家の外にあった。井戸までの雪かきから始めなければならない。私の家では井戸は裏庭にあったが、遠くから天秤棒で前後にバケツを下げて、水を運ばなければならない家も多かった。

村で水道を敷設したのは私が二十歳の時だった。

小学校(国民学校初等科)三年生の時だった。校舎の隅に作り付けの鶏小屋があって、学童が当番で餌やりをしていた。冬休みの最中でも免れることはなかった。
大雪で長靴が埋もれてしまい、雪がいっぱいに入ってしまう。そんな中二キロの道を歩いて餌やりに行った。
体中汗だくになって必死で歩いた。鉄道線路が高いところにあって踏切まで斜めの坂道になっていた。そこは吹き溜まりで胸まで雪が積もっていた。幸い軽い雪だったので、泳ぐようにして雪を分けながら歩いた。
学校に着いてすぐ鶏に餌をやった。当番日記があって、めくって私の前の当番の書いたのを見ると「にわとりにへをやりました」とかいてあった。
古いかな遣いでは「へ」と「え」の使い分けを理解できない者が多かった。前のページをめくって見ても「へ」と書いたものがかなりあった。面白いなと思って、鉛筆をなめて濃い文字で「へをやりました」と書いた。
ついでに本物を鳥小屋めがけて一発ぶっぱなした。祖母ちゃんに話せば「尾籠な」って叱られるだろうな、と思うと可笑しくて一人で笑った。
「尾籠」なんて言葉は七十五年昔でも、祖母ちゃん以外の人からは聞いたことがなかった。ワードでは変換してくれるが自分では書けない。
雪の積もった道には獣の足跡があちこちに付いていた。年上の子たちは「貂」の足跡だとか「狐」だとか知ったかぶりしていたが、大方は放し飼いの犬だろう。その中で、山の中から出てきて山に帰って行った足跡は不気味だった。
山裾を回る岩を削った道路には二階の屋根から見るように下に流れる川が見えた。
雪の中の川は黒く見えた。澄んだ水も砂も小石も墨絵のように黒く見える。
一度書いたことがあったが、雪の中の黒い川に「カワセミ」が飛んできて飛び込み、魚をくわえて飛び去るのを見た。カワセミは翡翠と書く。水色がかった緑色に見えた。一瞬のことで確かではない。インターネットで検索してみると大変な数の映像が見られる。画像のカワセミは空色である。銀世界の中の黒い川。そこで小魚を取るカワセミ、と目を皿にしてみたが、なかった。それだけ珍しい、素敵な風景を見たという事らしい。
このごろは、雪のない道でもあまり歩けなくなったが、思い出は豊かだ。豊かな思い出の中で不自由なく生きられる。感謝しなければ申し訳ないだろう。
 


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