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野間宏『文章入門』(膨張する本の記録―【シリーズ1】昔読んだ小説類の記録9)

はじめに―註―


文章読本系の本を幾つか見てから、三島由紀夫の『文章読本』に飛び、そこからさらに、三島由紀夫が書いた「疾走する小説」の例として『青の時代』と『夏子の冒険』を取り上げ、「疾走する物語乃至芝居」として歌舞伎喜劇の大傑作『鰯売恋曳網』を紹介しようと、この文章を書き始めたが、野間宏の『文章入門』に脱線し、その部分が少し増えてしまったので、これを独立させることにした。
三島の上記「疾走する小説」と「疾走する芝居」については、次の記事で論じる。

文章読本系と野間宏の『文章入門』


さて、文章読本の類は多くの小説家が書いている。

谷崎潤一郎の『文章読本』、川端康成の『新文章読本』、野間宏の『文章入門』、大岡昇平の『現代小説作法』、丹羽文雄の『小説作法』等を読んだのは覚えている。その他にも、読んで忘れてしまったものもあるかも知れない。多分かなりある。

一つだけ軽く取り上げておこう。
そもそも今の時代、野間宏という作家の小説その他の作品を読む人がいるのか自体かなり疑問であり、と言うより、読む人が少数の研究者以外ほぼいないことは分かり切っており、それ以前に、「のまひろし」という名前を知っている人も、想像以上に少ないことが、想像されるのだが、そんな野間宏の『文章入門』という本は、私にとってかなり面白い本であった。

この私の文章を読んでくれる一桁か二桁の読者の中で、野間宏という作家のことを知っている人はほぼいないと思われるので、少し説明しておく。

(因みに、Wikipediaを見てください、で良いとも思ったが、今野間宏のWikipediaを覗いてみたところ、著作リストはかなり充実していたが、説明の文章、地の文章がかなり少なくて驚いた。こういう場合、ChapGPT等では、馬鹿馬鹿しい文章しか出て来ないのが分かり切っているので、お勧めしない。
私は、実は、30年近くも人工知能の「物語生成システム」の研究をして来て、技術的な細部を問わなければ、それは今流行の「生成AI」の研究の隣接分野である。
しかし現在の生成AI、特に文章生成AIは、とても満足出来るようなものではない。何より、それが生成する文章には「文体」がないし、また小説に役立つような、不道徳で、邪悪で、禍々しい文章を書くのには、向いていない。
これは、現在の社会では、小説よりも現実社会の方が想像性や創造性において上・先を行ってしまっており、不道徳で邪悪で禍々しい文章生成装置は、すぐに現実の悪い奴ら―ヤクザやテロリスト等々―に使用されてしまうので、システム側ではそれに対する防衛策を、過剰な程に練らなけれならない、という事情があるのだろう。)

野間宏は、太平洋戦争の終結を待つかのように続々と出現して来た、「戦後派作家」の第一人者であった。
時に、第一次戦後派、第二次戦後派、という風に細分化もされているようだが、研究者以外にはどうでも良いことだろう。
兎も角、戦後、それまでの社会の中で押さえつけられていた連中の中のある部分が、一気に作家として社会に出て来た。野間宏はその一団の中の棟梁的存在であった。
その他に、埴谷雄高、武田泰淳、椎名麟三(今椎名林檎と似ているのに気付いた)、梅崎春生といった人達がいる。

三島由紀夫は彼らより少し若いが、デビューしたのが早かったので、同時代の作家であることは確かである。しかし、彼らの多くが軍人として戦争に行ったのに対して、三島は徴兵検査に落ち、戦場には行かなかった。(確か埴谷雄高も、戦争には行っていない。)
彼らと同じ世代で、フィリピン戦線で戦い、後に『俘虜記』や『レイテ戦記』等の戦争文学を書いた大岡昇平も、戦後派に括られるが、三島と共に、野間らとは少し雰囲気が異なる。

また、作家の中村真一郎、福永武彦、批評家で研究者の加藤周一といった人々も、野間や埴谷とは雰囲気が異なる。しかしほぼ同時代の作家であり、文学や小説における、文章・文体・構造・形式といったものにとことん拘り、執着した、という意味では、やはり戦後派作家の中に入れておくべきだろう。
三島とほぼ同年齢の安倍公房も、その上の世代とは少し雰囲気が異なるが、やはり戦後派作家に含まれると言って良いだろう。

時代を経て、今や彼らの内部の差異よりも、その共通性に着目した方が良い。
なお、詩人・批評家として有名な吉本隆明は、三島とほぼ同年齢である。

野間宏は、「暗い絵」や『真空地帯』のような、戦前社会や戦争を扱った作品を最初期には発表していたが、その後、戦前から戦後にかけての社会の諸相を重層的に描く、ことを目標として、『さいころの空』(兜町の株屋の生態を描く)、『わが塔はそこに立つ』(戦前の左翼運動渦中の若者の生態を描く)その他の長編小説を書いたが、その中でも特に長いのが、岩波文庫版で分厚い五冊から成る、大長編小説『青年の環(せいねんのわ)』であった。

『青年の環』岩波文庫版のアマゾンサイトは、以下で紹介した。

『青年の環』という小説は、日本語の四百字詰め原稿用紙で一万枚以上あるという。
日本にも長い小説はたくさんあるが、所謂「純文学」で、これ程に長いものは、滅多にない。
なお、ここで「純文学」と言っているのは、「芥川賞を取るような私小説」という、狭い意味ではない。
橋本治の『窯変源氏物語』の長さは、恐らく上記版原稿用紙で一万五千枚位あるのではないかと思われるが、こちらは『源氏物語』と言う原典があり、「純文学」とは言えないかも知れない。
(以下、第一巻だけ中公文庫版を紹介します。全十四巻だったと思います。なお、自慢ではありませんが(自慢かも)、私は全巻読破しました。
読んだのは数年前なので、「昔読んだ小説」の範疇には入らないが、後日少し感想を記してみたい。)

さて、野間宏のみならず、戦後派の作家が大いに拘ったのは、文章であったと思う。「文体」という言葉が死語になっていなかった時代だ。

三島の文章や文体の独特さを、必ずも三島個人の特殊性にのみ帰するのは、正しくないのではないかと思う。それは、文章や文体に徹底的に拘る、戦後文学における一大特徴と密接に関連していた、と私は考える。
野間宏の文章も、三島の文章とは全く異なった方向において、独特であり、あるいは極めて奇異なものである。
三島の文章は、修飾や形容が多く、難解な部分も多いが、しかし総体としては美しく、心地よく読み進めることが出来る。ある種の「大衆性」があるのかも知れない。
これに対して野間宏の文章は、難解と言うより「晦渋」で、長々しく、執拗で粘着質であり、勿体振っており、誰もがすんなりと読む進めることが出来るような代物ではない。「大衆性」がないのである。

(ただ、大阪出身の野間のスタイルの中には、独特のユーモアや、滑稽味を愛する感じが出ていて、笑ってしまう部分もかなりある。しかし、それが読者にすんなり伝わって来ない、と言うより、故意に、わざと、伝わらなくしているのではなないかと、疑われさえするのである。
長い小説の全体を読み通すのは結構な苦行となるに違いないが、上のようなことを承知していれば、その部分や断片を読むのも、面白いのではないかと思われる。
是非、従来の、重苦しく長々しい野間宏イメージを一旦棄てて、断片集など編んでくれる研究者がいたらと、期待する。)

また、思想的にも、もともとは共産主義の信奉者であった。その後共産党からは離脱するが、思想的・哲学的傾向が強いことが、一般の読者に受けない「非大衆性」をもたらしていたように思う。
そんな、一般的に言う「良い文章」からは大幅に逸脱した文章――端的に言って「悪い文章」・「悪文」――を書く作家としての野間宏が、「文章入門」についての本を書くのは、一見笑ってしまう。

しかし、私自身は、その当時(1970年代から80年代初頭)ですら、既に「昔の文学」扱いされていた野間宏、そしてその同時代の多くの作家や批評家の作品を、その頃まとめて熱中して読んだ。
なぜ、その当時にすら古い文学と思われていた彼らの文学に、そんなに熱中したのか――その答が、多分野間宏の『文章読本』中の主張に見出される。

野間宏は、この本の中で、既存の名詞を使用することは出来るだけ避けるべきだ、と読者に教示する。
それならどうするのかと言うと、ある事物を表現するために、既存の名詞を捨て、自分の言葉で、その対象をゼロから認識するかのように、書くべし、と読者に説くのである。
例えば、「コップ」なら、それを一言「コップ」と言えば素直に通じるのであるが、それでは駄目なのだ、ということを野間は主張する。
例えば、「そのきらきら光り、表面がつるつるし、まるく、触るといくらか冷たい、溶け出したりせず固まっているものを、片手を内側にまるめて握り・・・・」(難しいのでもうやめます)、といった具合に、恰も初めて見たものであるかのように、素直に(?)、新鮮に、描くべきだ、ということを、野間は読者に向かって語る。

今なら、これはロシア・フォルマリズムにおける、ヴィクトル・シクロフスキイが唱えていた、「異化の理論」ではないか、ということが分かるが、読んだ当時は、何か納得出来ないものも感じながらも、驚き、素直に、凄いと思った。

今の時代、読者に親切な文章を書くことが多分至上の価値であり、そうでないと、このnoteでもブログでも、読者を集めることが出来ず、影響力を発揮することが出来ない。
そして、影響力を発揮出来なければ、自分の意見を実現・実施することが出来ず、そんな奴・輩の言うことなど、「単なる負け犬の遠吠えだ」・・・???
「マーケティング的」にも、野間宏の文章入門は、最悪だ。
・・・・そういう類のことをしゃあしゃあと言ってのけるような連中に占拠された今の時代は全く窮屈な時代だが、しかしそういった連中が社会を決して本質的に良くしないバカであることも、多分確かだろう。

ではなぜ、野間宏は、そんな最悪の文章入門を出版し、読みにく長編小説を次から次へと刊行し続けたのだろうか?
野間だけでなく、なぜ、同時代の埴谷雄高も、何処まで行っても終わらない、長々しい文章を書き続け、三島もああいう華麗ではあるが難解な文章を大量に書いたのだろうか?

それは多分、彼らが、「形式の力」を認識していたからだと思う。
ある思想や哲学は、当然、それを語る言葉の内容的な側面なのであるが、思想や哲学が本当にその人の本質から発しているものなのかは、内容的な側面のみからは、判定出来ない。
人間は嘘を吐くことが出来るからである。
いくら素晴らしいことを言っていても、すべて嘘かも知れない。
しかし、形式はなかなか嘘を吐くことができない。
この場合の形式とは、単純には、その文章がどのように書かれているのかという、外的な部分である。

例えば、「日本は徹底抗戦せよ」と「日本は絶対に平和を守れ」は、内容的には、全く逆の思想・哲学である。
ところが、「日本は徹底抗戦し、日本人はその理念の下に滅びよう。それが民族のあるべき姿だ」という言葉と、「日本は絶対に平和を守り、戦争があっても、攻められても、絶対に戦ってはならず、その理念によって滅びよう。それが民族のあるべき姿だ」という言葉とは、構造が一致する。
つまり、形式的には同じだ。
上の例は、内容は正反対だが、形式は同じ、ということを示しており、本質は形式の方にこそある、ということを示している。
戦後の平和主義者は、内容的には、戦中期の一億玉砕思想の持ち主とは全く異なり、遥かに進歩的な人間であるかのように、内容にだけ注目すれば見えるが、その議論の形式・構造は、実は同じなのだ、ということを、上の例は示している。
つまり、両方とも、リアルを見ない、原理主義であり、破滅的な、つまり一般の大衆にとっては迷惑極まりない、思想・哲学なのだ。
もし、表現の形式や構造が抜本的に異なれば、新しいものを創造したと言えるが、そうでない場合、どんなに新しそうな内容を唱えていても、本質的な新しさには到達していない可能性があるのだ。野間をはじめとした戦後派閥作家達は、多分このことを知っていた。

野間宏は、恐らく、戦争が終わり戦後になって、日本を根本的に再考し、そして再興するために、既成概念や固定概念をゼロから再検討し、そのプロセスを小説を通じて描こうと考えたのだろう。
そのために、小説の文章から、既成概念や固定概念としての言葉を排し、物事を、ゼロから、全く新しい視点で、改めて描き出そうとしたのだろう。

その思考の成果を『文章入門』という本の中に書いたので、それは、既成概念・固定概念としての「文章入門」とは、全く異なる文章の入門となっている。

日本文学史において、この種の、形式・構造の変革の時代は、滅多に起こらないが、時々は起こる。
その最も大きな例は、江戸時代末期から明治時代初期に掛けて起こった、言語上の変革であった。文学の分野では、原文一致体運動として、文学の形式的変革運動が推進された。
これは、直接的には、文学作品における言語表現を、文語から口語に推移させる運動であったが、その形式の変換は、内容的な変換・変容と連動した。
それが成功したのか否か、果たして江戸時代の文学や芝居よりも豊かな産物を後代の文学にもたらしたのか―といったことは、考慮するべき主題となり得るが、逆に、そのような言語や文学の変革が、社会の変革と相互作用する意義を持っていたことを、否定出来る者はいないだろう。

それに続くもう一つの文学上・言語上の変革が、戦後文学を通じて為された、というのが私の考えである。
野間宏や三島由紀夫、その他の戦後派の作家達に見られる、言語的な冒険、形式や構造やスタイルの実験を見ると、その大きな可能性を感じずにはいられない。
しかしながら、徐々に文体・表現上の緊張度の高さ、形式・構造の実験度の高さといった特徴、あるいはその継承や意識化は、一部の作家――安倍公房、高橋和己、大江健三郎、倉橋由美子、金井美恵子、中上健次等――を除いて、見られなくなって行く。
そして、1970年代後半から始まり1980年代に至る、文化の大衆化の流れは、野間宏らの戦後派作家を駆逐して行った。
 
(なお、この「大衆文化の流れ」は、その時代、あちこちの本屋に通い詰めていた私の目からは、「文庫本の変容」という形で、感得されるものであった。
それまで、古典や、近代や現代における古典的な書物を中心とするセレクションを築いていた、新潮文庫、角川文庫等の中に、現代(と言うより「現在」)の、まだ文学的評価の定まらない小説が徐々に侵入し始めた。
そしてその勢いは益々加速し、今では、近刊小説の山の中に、僅かに古典的評価を獲得した作品が含まれる、という状況になっている。)
 
三島由紀夫の場合は、戦後派とはいえ、世代的に少し下であり、時代的条件を越えた普遍性や、ある種の大衆性をも持っていたので、今でもさかんに読まれている。
しかし、ここで取り上げた野間宏の方は、本人が書いた「文章入門」的実践を、あまりに激しく自ら実践したせいもあるのか、その小説の多くは、大衆性に欠け、あまりに晦渋且つ長大であり、描写や表現がしつこ過ぎ・・・等の理由で、多くの人が容易に読めるものとしての範囲を超えてしまっている。
今後、野間宏の小説が多くの人々に読まれる可能性は、高くはないだろうと私は思っている。
しかしながら、あらゆる物事を、初めて見るものであるかのように異化し、それに基づいた言語表現を敢行することを通じて、世界そのものを、その形式・構造の側面から揺るがし、新しい秩序を構築して行こうとする志向自体は、かなり普遍的なものだと私は思っている。
 
少し話を敷衍して考えてみよう――

この発想は、現状の貧しい社会に蔓延っている、「左翼‐右翼」・「ネトウヨ‐リベラル」等の分節化によって、相互にレッテル貼りを繰り返しているような「言論状況」の中に、別の角度からの、鋭く本質的な切れ込みを入れて来る。
左翼であろうが右翼であろうが、ネトウヨであろうがリベラルであろうが、同じような修辞・レトリック(言語上の形式や構造)で、物事を語っている者は、所詮、同じ穴の貉なのだ。
この種の、「物語内容至上主義」に基づく対立は、本質的なものではない。
例えば、「絶対平和主義者」も、「戦争主義者」(?)も、「原理主義的」な修辞・レトリックを使用する者は、時と場合によっては、「粛清」や殺人のようなことを平気で犯すのだ。
「原理主義的な修辞・レトリック」とは、自身の主張を文脈自由(文脈とは関係なく)に、どんな情勢下においても、強硬に貫徹しようとする態度に基づく、修辞・レトリックである。
「あいつは敵だ。敵を殺せ。」という、共通で便利な、言説の形式・構造がある。

なお、三島由紀夫の『豊饒の海』と野間宏の『青年の環』とを、戦後日本における二つの偉大な「全体小説」という観点から比較・考察した、井上隆史による以下の研究書がある。

『豊饒の海』については後日感想を書く予定であるが、本の紹介だけしておこう。

私自身は、以下の本の中で、上記の本も参考にしながら、物語生成システム(を使った文学)と、「全体小説」や「私小説」との関係について、考察した。


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