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9年前の卒業式


今、新型コロナウィルスの影響で小中高と臨時休校が実施されているというニュースを目にします。

卒業式の開催さえ危ぶまれていると聞き、不安な日々を送っていることと思います。

卒業生の方と近しい体験をしたなと感じたので、参考程度に読んでいただければと思います。

9年前、高校の卒業式前日に東日本大震災が発生しました。

私の住んでいた地域に大きな被害はありませんでしたが、それでも体験したことのない大きな揺れを感じました。コンクリートの上にいるのに水上で揺られているような感覚でした。

高校近くの友人宅で遊んでいた私は、地震の影響で電車が止まり、回線が混み合ってなかなか繋がらない電話を何度もかけ、友人に車で送ってもらってなんとか帰宅するほどでした。

各地で卒業式は延期になっていましたが、何故か私の通う高校は翌日、予定通りに行いました。

今振り返ると震災が起きてからの自粛ムードの下では、時間が経つほど、喜んでいいのだろうか、こんなことしていていいのだろうかなど、より複雑な気持ちを抱いたまま、卒業を迎えることになっていたかもしれないので、開催が良いとか悪いとかではなく、その判断に本当に感謝しています。

表現は間違っているかもしれませんが、私は震災ありきの卒業という認識を持っています。
本当に特別に感じますし、震災があったことを決して忘れないと思います。

話は逸れますが、1992年生まれは節目に色んなことが起きていると言われています。

私が体験したことでいうと、高校から入学式は大型の低気圧の影響で大雨、翌年はインフルエンザが大流行し、危うく修学旅行が中止になりそうだったこと、卒業式は先程記した通りで、成人式は大雪など、自然の影響をもろに受けている世代です。世代的な流行り物で擬えると自然からの「ダイレクトアタック」が強烈なのです。(もっと上手い言い方があれば教えてください)

良き思い出の側にいつもそうした事象があるので、飛躍気味ですが、私自身は震災も含めて、記憶の風化はこの世代がいる限りはないんじゃないかと考えます。

そして、その経験が多感な時期と重なり、将来に結びつけて考える機会になっていたので、暗い影を落とすばかりではなかったと思います。

私のこれまでの経験を振りかざして、その時よりはマシだろうと言うつもりは毛頭ありません。

ただ、失うものばかりではなく、得ることができる機会でもあるのです。

東日本大震災の余震は人の心の中にも未だ続いていると思います。買いだめがその例ではないでしょうか。供給不足が懸念されると心配になり、当時のことを思い出して、買いに走ってしまう。その懸念が杞憂であり、デマであってもです。

情報化社会と言われて久しいですが、受け取る側の訓練はこういう時でないと出来ないと思うのです。

閲覧数を稼ぎたいだけのまとめサイトの情報、注目を引きたいがためのSNSでのデマ拡散、発信する側の意図を理解しなきゃいけない面倒な世の中です。

蔓延している新型コロナウィルスにしても政府が中心となって情報を発信しています。間違っていた場合に責任を取れるところが発信しているなら、信憑性はあると思います。

日本人特有の責任論はピラミッドの上であればあるほど気にかけるところなので。

話は度々脱線しましたが、卒業とその先の新たな門出に多くの幸がありますように。

不安焦燥はその時だけのものではなく、きっと今後の糧になります。

だから頑張ってください。

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