コイントスと戦争の行方 ーマリウポリ郊外にて

 2022年2月16日。明朝の首都キエフからぶっ続けでランドクルーザーを駆りおよそ9時間。目的地であるマリウポリから数kmほど離れた郊外で、ボリスと運転手のディマとハチャプリを片手に紅茶をすすりながら小休憩を挟んだ。ロシアが2021年の終わり頃から現在にかけて行っていた国境への戦力増強が終わりに差し掛かり、世間はついに侵攻が始まるのか否かで、紛糾していた。

 国内外の地域専門家、アマプロ問わない軍事分析屋、ジャーナリスト、政治家たちが自説を披露する中、あえて意見の表明を避けていた我々にも、ついにその時がやってきてしまった。たとえ組織が政治的中立を掲げていても、当たり前だが各々が政治的意見を持たないわけではない。ただ旧ソ連地域(そう呼ばれることを嫌う人が多いのはわかっているし、ついぞ侵攻が現実に起きてしまった今この表現が言葉狩りに曝されつつあるのも事実だとしても、現にソ連を経験した人たちは往々にしてそう呼ぶ。説明をする手間が省けるからだ。)で青春を過ごした彼等は冷笑的ではないものの、ある種の哲学的な態度を以て今起きている出来事や現象に目を向ける。ソ連崩壊と混沌が支配する90年代を、あの手この手で駆け抜けた人々は、「Поживем, Увидим(今にわかる)(生きて、見てみようじゃないか)」と吐き捨てながら、全く予測がつかない未来の一端を掴もうとして、半ば投げやりに手を前に投げ出す。

「ソ連崩壊を言い当てた学者がいたか?こんなデカい事件を予想できないなら、俺が酔っ払った時に口走った法螺や、シベリアのシャーマンの占いのほうがよっぽどマシだ。だから学者(インテリ)は好きじゃないんだ。"Всезнайки"(直訳:全てを分かった連中。学者に対する蔑称。)は戦争が起きる起きないとあれこれ言うが、そんなのあのクソ野郎の頭の中一つだ。誰かあいつの頭の中身を見れんのか?」
 ディマが手を勢いよく放りながら、吐き捨てる。
「まあ国際関係学者や政治学者は占い師でもないし、未来予測者でもないから・・・彼等は過去の出来事を分析して将来に活用出来るように・・」
 私が宥めるように返答するも食い気味にディマが言う。
「だったらなんなんだ?そんな連中は腐るほど今までもいただろう。連中が良い未来を作ったのか?生活を良くしたか?ペンでシコってるБотанчики(всезнайкиの類語)に何がわかるんだ!戦争が起きたら絶頂ものだろうよ、飯の種が増えるんだからな!」
 ああ、ミスったなと私が少し気まずそうにしていると、ボリスがニヤニヤと、沸騰した彼を落ち着かせるようなトーンで話しかける。
「お前の言ってることは、まあ正しいんじゃないか。今じゃ、あの、ヴァロージャの頭ひとつだ。オートメカニック一筋で生きてきたお前が、奇しくも学位を持った学者たちと同じことを言ってるんだ。きっとチュマク(アラン・チュマク。90年代ロシアで人気を誇った怪しい超能力者)も同じことを言うだろう。じゃあコイントスで決めても変わらんよ。50-50だ。今ここに責める人間がいるわけでもない。どれにする?ヴァロージャ(ウラジーミル一世)か?ボグダン(ボグダン・フメリニツキー)か?ローシャ(ヤロスラフ一世)か?いや、弾きやすいヴァーニャ(イヴァン・マゼーパ)のほうがいいかな?おい、お前が選べよ。」
笑いながらボリスは私にコインを差し出した。例の男と同じ名前を持つウラジーミル一世(1フリヴニャ硬貨)にしようとしたが、小さすぎたので結局ボグダン(5フリヴニャ硬貨)を選んだ。


「ボグダンの顔が上を向いたら、戦争だ。下を向いたら、戦争は起きない。責任重大だな?」
ボリスはくっくっと笑っている。ディマは真剣に腕を組みながら私の指先に視線を集中させている。なんでもない野外での昼休憩のくだらないやり取りであるにも関わらず、なぜか私の指先は緊張で震えている。
Блин(くそ)、と苦笑いをしながら軽く悪態をつく私。コインが乗った指を弾く前にボリスの顔をちらりと見る。愁いと希望が混ざった、複雑な感情を湛える青い目と、年輪のように刻まれた深い皺を持つその顔は、私に興味の視線を向ける。コインではなく私に顔を向けているのだ。なぜ?と数瞬の逡巡の中で私は、彼がなんだかこの先に起きる出来事を既に分かってるような気がしてならなかった。
コインを弾いた。予想より高く空に舞ったコインをなんとか手の甲に収めようとするも、うまくいかず地面に落ちてしまった。
私達3人がコインを覗くと、ボグダンは私達の顔を覗き返した。
「あぁ!戦争か!」


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